2015.08.02 Sunday

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2009.10.16 Friday

月の軌道が狂ったのだ

 

月の軌道が狂ったのだ、いつもよりずっと地球が近づいたので、人間どもが狂いだしたのさ
(シェイクスピア 「オセロー」)

僕は、若い頃から、女の子を口説くのは満月の夜に限ると信じている。絶対に確率が高いからだ。ちなみに、雨も女心に異変をもたらすが、雨によって結ばれた恋は何故か暗い結末に終わるのが常だった。その点、月夜に結ばれた恋はその後の成り行きが明るい。やはり女自身が興奮して、自ら進んで身を投げ出した意識があるからだろうか。いや男は、自分が口説いたつもりでいるが、実は女にぺろりと食べられたのかもしれない。まあどちらでもいいのだが、思いを遂げて空を見ると決まって大きな月が微笑んでいた。(なかにし礼 愛人学)

満月の季節、デートの夜は、空にも留意されたい。


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2009.10.05 Monday

内田樹、村上春樹を語る

 

内田樹氏はその著作「村上春樹にご用心」で、村上春樹氏の小説のテーマは何かについて語っている。世の中に村上春樹論は、たくさんあって、全部をチェックしているわけではないのだが、内田氏の主張が一番うまく説明しているように思う。

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「僕」の住むこの世界で、「僕」や「僕」の愛する人々は、「邪悪なもの」の介入のよって繰り返し損なわれる。だが、この不条理な出来事の「ほんとうの意味」は物語の最後になってもついに明かされることはない。考えてみると、「不条理な物語」だ。
...
邪悪なものによって損なわれるという経験は私たちにとって日常的な出来事である。しかし私たちはその経験を必ず「合理化」しようとする。

愛情のない両親にこづき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、バカで利己的な同級生に虐待すること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること。愚劣な上司に査定されること、不意に死病にとり憑かれること...数え上げればきりがない。だが、そのようなネガティブな経験を、私たちは必ず「合理化」しようとする。
...
これは私たちを高めるための教化的な「試練」であるとか、私たち自身の過誤に対する「懲罰」であるとか、私たちをさらに高度な人間理解に至らしめるための「教訓」であるとか、社会制度の不備の「結果」であるとか言いつくろおうとする。

私たちは自分たちが受けた傷や損害がまったく★「無意味」★であるという事実を直視できない。
...
しかし、心を鎮めて考えれば、誰でも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。
...
村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を淡々と記述し、そこに「何の意味もない」ことを繰り返し、執拗に書き続けてきた。
(内田樹 「村上春樹にご用心」) ★は、引用時に挿入
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内田氏の記載にはこれ以上の説明はないのだが、内田氏は当然の前提として、人が物語を構築してつらい現実を乗り越えようとすること、物語そのものは恣意的なもので、意味はないことを示している思う。そして、村上春樹を読むことは、単にライトなビールを読むような一服に清涼感にとどまらず、このようなトラウマから解放されること、物語づくりという感傷的な作業を乗り越えて進む先を示唆しているように思えるのだ。




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2009.10.04 Sunday

浅田次郎の修辞学

 
浅田次郎氏の短編は、泣かせる技巧の極みにある。

しんみりとした秋の夜長に、10年の前のベストセラーを読み直してみた。ストーリーを知っているため、どの短編も、泣かせの場面のインパクトは薄まってしまうのは否めないものの、心理を投影した情景描写は、俗っぽい情感にあふれていた。

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外壁は蔦に蔽われていた。ショウ・ウィンドウの前の植込にインパチェスが咲いており、かたわらに薄紅色の花をつけた樹木が植わっていた。それが百日紅であるということは、ずっとのちに知った。
しかし、私の知るかぎりの百日紅はみな暑くるしい、ときには獰猛な感じすら受ける花であるのに、「伽羅」に植わっていたそれだけは、なぜか別物のように上品で、静謐な感じがした。つややかな幹も、葉も、薄くれないの花も。
...
二度目に「伽羅」を訪ねたのはー、そう、色を失った百日紅にかわって、その根元に燃えるような彼岸花が咲いていたから、九月の半ばすぎということになる。
...
店の前の植込には、彼岸花がしおたれるとインパチェンスが咲いた。それが散るとシクラメンが植えられた。どれも幻のほむらのように赤く、静かな花だった。
...
雨に煙ったサイドミラーの中にぽつんと灯っていた赤い色は、シクラメンだったのだろうか。それとも私を見送る彼女の傘だったのだろうか。(浅田次郎「伽羅」)
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ブティックの女主人をめぐる短編の中で、ブティックの前に植えられた花の描写をぬきだしてみると、日月の経過の中の、変わり行く植込みの花々に、女主人の色香が、なんのためらいもなく、投影されている。

ここに描写されているのは、色でも光でもなく、匂いだと思う。

三島由紀夫の高尚さも、村上春樹のアフォリズムもない心象描写が、市井の人間臭い情感を醸し出しているのだと思うのだ。



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2009.10.02 Friday

ラディゲ  肉体の悪魔

 

「彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった」

(池澤夏樹 世界文学リミックス 若くて恐ろしいラディゲ 『肉体の悪魔』 )



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2009.10.01 Thursday

オスカーワイルド 友には美貌を 

 

ちょっとドッキリする言葉だ。19世紀末の耽美主義の文学者
英国のオスカーワイルドの言葉。

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友情を結ぶには侠気も功利もいらない。ただ相手が美しく、また自分も
それに見合って美しければ、それで充分じゃないか。いかにも
「幸福の王子」のように甘美にして残酷な童話を書いた詩人の口にしそうな
言葉です。
...
もっともこのアフォリズムは、友は美貌をもってよしとする、というだけの
メッセージではありません。美しきものはすべからく友とすべし、という逆の
意味も含んでいます。美とは生活を離れて博物館に陳列されてしかるべきもの
ではなく、間近に、親しい友として置いておくべきものだという態度のことです。
...
理想の友とは、では同性なのでしょうか、それとも異性であってもよいのでしょうか。
...ワイルドの説く「美貌の友」はどうでしょうか。これは男性とか女性といった区別を越えたところで成立する現象です。
...友情はセクシーでなければいけないと、彼は説いたのです(四方田犬彦、「指が月を指すとき、愚者は指を見る」)
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同性の間に成り立つとする友情の観念や、男女間には恋愛、付け加えるとしたら
家族内の愛情と、言った固定化した人間の友愛関係とそれによって生じる憎悪と
言う閉塞状況をこの言葉には打ち消すような予感がする。

恋愛というのが、近代の発明の1つだとすれば、それが社会的な慣習の一形態にすぎないことに気がつく。
旧態化した社会や家族による人間関係が維持できなくなってきているとしたら、もっと新しい友愛関係が現れてきてもよいと思うのだ。
会社の仕事の中で、時にシンドイ業務をかぶるのも,デリケートな心身の女性を守るのも、すべて友愛の概念で一気に解決はできないだろうか。
相手が美しくあれば、それだけでこちらからサービスする対価は相殺されるのだと。

僕は、お気に入りの女性の友人たちに、この言葉を捧げたいと思う。

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2009.09.29 Tuesday

池澤夏樹 科学的叙情性

 

音もなく限りなく降ってくるを見ているうちに、が降ってくるのではないことに気付いた。その知覚は一瞬にしてぼくの意識を捉えた。目の前で何かが輝いたように、僕ははっとした。

 が降るのではない。片に満たされた宇宙を、僕を乗せたこの宇宙の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。僕はその世界の真中に置かれた岩に座っていた。岩が昇り、それを見る僕が昇っている。はその上の限りない上昇の指標でしかなかった。
 どれだけの距離を昇ればどんなところに行き着くのか、が空気中にあふれている限り続けられるのか、軽いの一片ずつに世界を静かに引き上げる機能があるのか。半ば岩になった僕にはわからなかった。ただ、ゆっくりと、ひたひたと、世界は昇っていった。海は少しでも余計に昇れればそれだけ多くの片を溶かしこめると信じて、上へ上へ背伸びをしていた。僕はじっと動かず、ずいぶん長い間それを見ていた。(池澤夏樹 「スティル・ライフ」)

池澤夏樹氏の叙情は、ヒトが生身の肉塊からできていることを忘れてしまうような、透明感に満ち溢れている。それでいて、ニューサイエンスやガイアといったホロニズムに容易には迎合しない倫理観がある。科学用語を使った比喩が宮沢賢治を彷彿させる。

池澤氏の執筆のスタートが日本を脱出して始めた島暮らしであるのは、どこか印象的だ。陰鬱な本土の人間関係も肥沃な土壌からもましてや近代都市からも逃れた場所で、どこかスコールがすべてを洗い流したようなピュアリファイが池澤氏の叙情性を確立させたのではないだろうか。


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2009.09.28 Monday

父の恋恐ろし

 
雪女郎おそろし父の恋恐ろし  (季語/雪女郎)
中村草田男

これはいったい、誰がどのような状況で洩らすセリフだろうか。

父の恋が恐ろしいのは、家庭という空間に、突然の破壊をもたらすからだ。

そうすると、嘆くのは息子だろうか、娘だろうか。
うまい理由はないが、息子のような気がする。
なぜかといえば、男の業を理解できるのは同性の息子だからである。

まだ、結婚前の子供たちは、このセリフは似合わない気がする。
父の業が理解できないから。

父が還暦をすぎていれば、父の恋はせいぜい夫婦間にもめごとを招く
だけの気もする。

そうすると、息子もそれなりに成人になって、結婚を意識しはじめたころ
ではないだろうか。 そして、自分にもその血が流れていることを呪われた
血脈として恐ろしいと思うのだではないか。

そのおろしさが雪女に匹敵するわけを僕は知らない。



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2009.09.23 Wednesday

夜の桃

 

中年や遠くみのれる夜の桃(三鬼)

四方田犬彦氏は、恩師由良君美氏との確執を描いた「先生とわたし」の中で、三鬼の俳句の良し悪しを議論しているくだりにふれている。

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すると彼はいきなり語気を荒立てて、「違うね。中年とは断じてそういうものではない!」と怒ったようにいった。折から帰宅を急ぐ勤め人たちで電車は混んでいた。彼らは一瞬何ごとが起こったのかと、訝しげな表情で二人に気を留めた。
...
由良君美はそのとき46歳だった。中年が遠くにある桃ではないとすれば、それでは彼はどのような中年を生きているのだろうか。もっともそれから先は、21歳のわたしには理解もできず、また触れてはならない領域のように思われた。(四方田犬彦 「先生とわたし」
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石田衣良はこの句からとったと思われる「夜の桃」という小説を書いている。

桃の季語が秋であるのかどうかわからないが、この句は人生の秋という情感がたっぷりである。
”夜の桃”はしずくが垂れて濃厚な表現であるが、三鬼が何を意味したかったのか僕は知らない。

三鬼は、鬼才だったらしく、こんな句も作っている。
おそるべき君等の乳房夏来る


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