2015.08.02 Sunday

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2009.08.01 Saturday

許せないと言いたい口元

  

松たか子さんの魅力はその口元にあると思う。不誠実に対して許せないと言いたげな凛とした口元に強い意志を感じる。

つまるところ、どのドラマであっても、松たか子さんが演じる役割というのは、周りの登場人物を許せないと言いたげで、意志の固そうな女性である。そして彼女が周囲の人間との関わりの中で、だんだんと、不実にあふれる世の中や欠点もあるパートナーを受け入れて成長していくことに尽きるように思うのだ。

NHK大河ドラマでは、父の仇の竹中直人=秀吉を許さない姫君だった、ラブジェネレーションでは、すれ違いの中で恋人候補のキムタクを許さないOLだった。HEROでは不正を許さない検察庁の事務官だった。検察庁の事務官というのは「許さない役柄」というにはハマリすぎているのだが。
 
許さざる心。不寛容さというものが、ひとつの未成熟の現われだとしても、松たか子さんのキャラクタに幼さを感じるということはない。彼女が不誠実を不正を認めていくプロセスは、おおげさに言ってみれば、慈愛が世界を救済してく過程である。ドラマの中の不誠実なパートナーたちと視聴者である自分自身が糾弾される。浄化されていく思いがする。
 
http://www.youtube.com/watch?v=6DI8XduE__w


松たか子さんの持ち歌のCDをいくつか聞いてみたのだが、抜群に歌がうまいとは感じなかった。竹内まりやさんとのコラボでは、あまり技量に走らない、そのストレートな発声が、これもまた凛として、楽曲の歌詞や竹内まりやさんとの合唱にマッチしていると思う。   


 2008 松たか子、竹内まりや  元気をだして
2009.07.30 Thursday

つり銭の渡し方

  

近所のスーパーの話である。チェッカーにとてもつり銭の渡し方がうまい女性がいた。

コインをのせたレシートに両手を添える。音もたてずにつり銭を渡す。その手さばきは優雅な様式美ともいいたくなる。差し出す手につり銭を移すとともに、わずかに会釈が添えられる。ベンツの後部座席に座った乗客の眠りを妨げないように、静かにブレーキをかけて車を停止させるベテラン運転手のようだった。ビジネスクラスのシートでコーヒーを差し出すアテンダントでも、まだまだ改善の余地はあるように思わせた。

つり銭の渡し方を指導されているものかと言えば、そうではない。ほかの店員さんたちは失礼の無い範囲でのごくフツウのやり方である。つまり、彼女の作法はあくまでも彼女の個人的な流儀だったと思う。

その流儀が印象づけられたのも、実は、彼女の外見が少しばかり個性的だったからである。はっきり言ってしまえば、美人というわけではない。あまり活発にもみえず、どちらかと言えば控え目の印象である。ところが、ヘアスタイルには自己主張が感じられた。デザイアを歌っていたころの中森明菜さんかコシノジュンコさんのような目元を強調したボブ。そして少しマスカラが強調されたメイクが際立っていた。

ある日、コーヒーショップにでかけていくと、その彼女と思わしき女性が目についた。文庫本を片手に手持ち無沙汰そうにケータイのメールチェックをしていた。働いているときの姿とは少し印象は違うのだが、足元に黒のローファーが目に入った。週末のファッションスタイルとしては、少し個性的なので、おそらくその彼女であろうと確信した。
誰かを待っているのかと思えば、あまり席に腰を落ち着けるでもない。店をでていく後姿に、あまり男のともだちのいない生活が想像された。

たまたま、その次の週も同じコーヒーショップで、手持ち無沙汰の姿を見かけたので、いまだ嫁いでいない妹を気遣う兄のような気持ちになってしまった。

しばらくして、そんなこともすっかり忘れた。そしてある日、いつものスーパーマーケットにでかけていくと、その彼女が洋々として買い物をしている姿を認めた。しかも、その傍らには男性がひかえ、足取り軽く、二人で店をでていった。勤務先のスーパーマーケットで買い物をするぐらいであれば、ステデイな関係であることは想像できる。やれやれ。その二人の後ろ姿を見送って、少し肩の荷が下りた気がような気持ちになった。あまりにも、一方的な思い込みにすぎないのであるが。

相手の男性が誰なのかは知ることもないが、ひょっとしたら、つり銭の渡し方が気に入ったのかもしれない。あるいは、時代がかったヘアスタイルが好みだったのかもしれない。いずれにしても、テレビドラマのコピー風に言えば、占い師が保証する程度の確率で、恋愛の神様からのささやかな恵みはあるのだと思う。



さて、昨今あまり使わなくなった美人薄幸という言葉が、一番似合うのは、宮沢りえさんではないかと思う。アイドルの絶頂期から婚約破棄までの経歴を思い出させるからかもしれない。もっとも先入観はなくても、どこか寂しそうな気配が、少しやせた頬のあたりに漂っていることが認められる。あるいは鼻筋のほくろのせいだろうか。

ビンボーがなくなった現代においては、美人薄幸、は成り立たないのかもしれないが、要は、宮沢りえさんは、その本来の容姿に見合うだけの幸福さを身をもって体現していないということなのだと思う。逆に言えば、さて、昨今あまり使わなくなった美人薄幸という言葉が、一番似合うのは、宮沢りえさんではないかと思う。アイドルの絶頂期から婚約破棄までの経歴を思い出させるからかもしれない。もっとも先入観はなくても、どこか寂しそうな気配が、少しやせた頬のあたりに漂っていることが認められる。あるいは鼻筋のほくろのせいだろうか。

ビンボーがなくなった現代においては、美人薄幸、は成り立たないのかもしれないが、要は、宮沢りえさんは、その本来の容姿に見合うだけの幸福さを身をもって体現していないということなのだと思う。逆に言えば、芸能人という特殊な枠をはずしたフツウの女性としては、ごくフツウに幸福であろう、と言えるのかもしれない。

うまく説明できないのだが、つり銭の渡すのが優雅な彼女にも、美人薄幸という言葉が重なるのだった。あの日以来、つり銭を渡すときの会釈は、少しニヤリと笑っているような気がしている。
芸能人という特殊な枠をはずしたフツウの女性としては、ごくフツウに幸福であろう、と言えるのかもしれない。

うまく説明できないのだが、つり銭の渡すのが優雅な彼女にも、美人薄幸という言葉が重なるのだった。あの日以来、つり銭を渡すときの会釈は、少しニヤリと笑っているような気がしている。
2009.07.29 Wednesday

いじめられたい女性

  

今、一番いじめられたい女性は誰かと、尋ねられることがあれば、永作博美さんと答えることにしている。彼女が笑うと空が晴れ、彼女が泣くと地が雨に濡れる。顔をしわだらけにして怒った顔も、潔くさっぱりしていて魅力的なので、きっといじめられても幸せな気分になりそうに思う。

彼女の魅力的面立ちは何に起因するものか。考えてみると、30歳後半の大人が獲得した感情表現と、二十歳前後に見える童顔との稀有な組み合わにあるのではないだろうか。実際のところ、ちょっと数年前の彼女を映した映像を確認してみると、まだ凡庸な童顔の女優さんの域を超えていない。
 
昨年上演された「人のセックスを笑うな」は彼女の旬の魅力が、それなりに発揮された映画である。美術学校の講師役の永作博美さんが16年下の松山ケンイチさん演じる主人公を奔放に誘惑していくストーリーがアンニュイな音楽と撮りっぱなしのような映像構成で展開する。

http://www.youtube.com/watch?v=fxWoEu8lNLw
 
さて、日々の生活は、時にして、不愉快な思い、傷つき腹のたつ出来事の繰り返しである。年齢を重ねていくことに何かよいことがあるとすれば、だんだん、そういうことに鈍感になったりすぐに忘れてしまうことである。そうは言っても、不愉快なことを解消する術があればしくにない。

そこで考えてみたのだが、世界がみんな永作博美さんだったら、どうだろうか。不愉快なことをしでかすのも彼女であれば、ひどいことを言うのも彼女である。おそらく80%ぐらいの確率で、自分の人を見る目のなさを反省しつつ、そうか、、、実はこんなに性格が悪かったのかと、彼女を嫌いになってしまうと思う。

それでも20%ぐらいの可能性としては、彼女のすることであれば、それが不愉快なことであっても、納得してしまうような気がする。傷つけられてもすぐに許してしまうように思える。不幸は解消されていく。

こーゆー話は妄想というべきものであって、それでおしまいなのであるが、個別的な妄想にも普遍性はある。 つまりのところ、女王様がいなくなってしまった事が、近代の不幸である。

女王様の言動であれば、それが正しくても間違っていても、臣民としては、納得してしまうのである。それが品格とか人徳というものであって、理屈を凌駕する。官房長長官のプレス向けコメントは、ぜひ、永作さんに代読してほしいと思う。みんな納得する。       

    2007 井口奈己 人のセックスを笑うな
2009.07.27 Monday

元アイドルがキレる夜

もう半年近く前のことになる。大晦日の格闘技番組で、無謀にもプロレスラーに戦いを挑む泰葉さんの姿があった。何しろ、ご主人との離婚にまつわる暴言と奇行で芸能レポート番組の格好の材料となっていた年である。その言動の総決算という印象だった。

キワモノを承知で、番組を覗いてみれば、芝居がかかった台詞は想像のとおり。いったい何がしたいのかしらという、背後からの家人のあきれ声にも応じながら、鬼気せまる演技とその真剣さには、どこか気になるところがあってチャンネルはそのままにしておいた。
 
さて、演出どおりの試合が終わると、彼女は持ち歌のフライディチャイナタウンを唄った。果たして、声量は往年時に劣るものではないことに感心するとともに、歌詞の一字一句の表現はむしろうまくなったように思えた。 こんな唄い方だったろうか。あとから、youtubeでデビュー時の映像と比較してみると、確かに表現力に変化があった

。 。。。

彼女の奇行の動機は今でもよくわからない。なんというか、自分自身と周囲にむしょうに腹が立っていたのではないかとは思う。それ以上の彼女の個人的なことの詮索はあまり興味がないのだが、その感情は、明らかに、歌をうまく唄わせていると思った。
 
かつて歌手輩出の伝説番組、「スター誕生」があった。唄うテクニックだけは申し分ない中学生などの出場者に対して、著名な作詞家の審査員の先生は、たびたびこんなことを言っていたのをよく覚えている。あなたの歌は、技術的には指摘するところはない。もっといろいろなことを経験すれば表現力はもっとよくなると。

もし泰葉さんがスター誕生でデビューしていたとしたならば、数十年後、かの審査員の先生は、いろいろな経験をつんだ彼女の歌を聞いて、なんとコメントしただろうか。                        1981 泰葉 フライディ・チャイナタウン
2009.07.25 Saturday

23年目の卒業

斉藤由貴さんが23年ぶりに「卒業」をテレビで披露している姿に、思わず釘付けになってしまった。その歌いっぷりは、往時と比較しても、格段にうまくなったとは思えないものの、唄がリスナーを引き付けるという点では、こうして日記に書かさせるには十分なものだった。

明らかに、容姿にはそれなりに、首筋や肩の肉付きに、よくも悪くも年を重ねたことを感じずにはいられないし、発声といえば、薬師丸ひろ子にも似た高音にコーラス調の単調さを思う。

それでも、その素朴な唄い方の中、ささやくような、深呼吸するような表現力に、彼女のパーソナリティと人生を見るように思える。

かつて、「卒業」の歌詞を読んだときは、その少し醒めた卒業生の記述には、ちょっと実際の高校生には似つかわしくない、ある種のうそ臭さを感じていた。今回、大人になった彼女が歌う歌詞を確認すると、その歌詞から不自然さが消えていた。

http://www.youtube.com/watch?v=XrT--UhX1vc

斉藤由貴さんが鏡を見るように、向かい合って唄う一青窈さんが、このコラボを完成の極みとなしている。その、端正な面立ちが、ちょっとこちらが恥ずかしくなってしまうほどに、まるで素人がカラオケで唄うがごとく変貌する。眉間にしわをよせ、片目をオーバーにつむる唄いっぷりには、何か、まったく隠すことのないヌードな表情というべき、インパクトを感じる。好みの問題なのかもしれないが、そのこぶしを微妙に振るわせる歌唱には、ビリーホリディを感じる。

ナレータの草薙剛さんが、23年目の登場という。23年目の卒業。つまり、この歌は、卒業から23年たった大人が、高校時代を想起して、せつなさを名残惜しむ歌だったのだと、奥の深さにようやく気づいた。ふーん、その発見には何か教訓があるのか、と問われたら、四半世紀かかって発見できるものがあるならば、それだけでも生きる価値があるというものだ、と答えるべきなのかもしれない。


                   1986 斉藤由貴 卒業
2009.04.25 Saturday

本当はおとなしいと思う女性

 もう10年も前のことになるが、海外で暮らしていたときのことである。グラフィック雑誌「太陽」の最新号の特集で、ジャズ歌手の綾戸智絵さんがいい感じのポートレイト写真とともに、紹介されていた。その記事を読んで、日本のジャズ好きの友人知人たちに、評判を聞いてみた。テレビに登場し始めたこともあって、それなりの好印象の答えは返ってきたものの、肝心の歌の方は、話だけでは要領を得なかった。早く日本に帰ってCDを買ってみようと決意した。

日本に帰って、早速CDを購入してみたところ、これまでの日本のジャズシンガーにはなかったような、本場仕込みのアクセントで豪快な歌声になるほどとは思った。とはいうものの、あまりに力の入りすぎた表現に、彼女が無理を強いている印象をもった。

確かに、バラエティ番組などで見られる関西弁バリバリのマシンガントークが、歌手という肩書き以上に、綾戸さんの人気を獲得しているようである。ところが、直感的な印象にすぎないのであるが、綾戸智絵さんの豪快で明るい振る舞いは、彼女が意識的に演じているものではないだろうか。本当のところの彼女はもっと大人しく落ち着いたキャラクタであろうと、CDのジャケットの中の渡米前の10代の時期の彼女の写真をみて確信した。


ここまでの話であれば、きわめて個人的な見解である。あえて周囲に同意を求めるものでもなかった。


ある日、スピリチャリストの江原さんのテレビの番組をみていると、綾戸智絵さんが登場してきた。興味深くトークに聞き入った。話の興が乗ってきた綾戸智絵さんは、この間占い師にこのままだと近いうちに死んでしまうので、気をつけるように言われたことを江原さんと美輪さんに相談するのだった。そうすると、二人はさもありなんと、顔をみあわせて答えた。確かにそのとおりであると。あなたは、ライブでもいつ死んでもいいと思って、全力疾走をしすぎているので、このままでは倒れてしまうという指摘も無理はないと。

綾戸智絵さんの10代での単身渡米といった度胸から、現地での結婚と子供を抱えての日本帰国、闘病といった経歴を確認すれば、彼女の1日1日の全力疾走の気持ちも痛いほどわかる。

番組のホスト2人がそういったからと言って、結論を早急に急ぐものでもないし、一番よくわかっているつもりの本人にしてみれば、大きなお世話なのかもしれない。けれども、私には、もっと力みをぬいていけば、綾戸智絵さんの歌はもっと自然で、魅力も増すのではないかとひそかに思っている。

            綾戸智絵 夜空ノムコウ
2009.04.23 Thursday

美人の顔が崩れるとき

 たぶんに、主観的な印象につき、どこまで理解していただける話であるのか、疑問ではあるが、うりざね顔の美人には泣いた顔や怒った顔は似合わないように思っている。

具体的にあげるならば、仲間由紀恵さんや鶴田真由さんなどがドラマで涙を流していたり辛そうな表情をしているシーンを見ると、ちょっとがっかりしてしまう。それは、誰であっても同じことではないかと問われると、永作博美さんだったら、怒っている顔も泣いている顔も笑顔と同じくらい魅力に思えるだけれど、と答えたい。

さて、歌手である一青窈さんの唄いっぷりは、最初にその唄う映像を見たときから、強いインパクトをもって記憶に残った。その木の葉を横に並べたような瞳。面長の聡明な面立ち。片目をつむったり、眉間と鼻筋をしわだらけにして相好を崩す。そして天に手を伸ばして感情を込めて唄うスタイルの組み合わせが独特だったからである。一青窈さんのあまりにもあからさまなその表現は、東京ガールズコレクションのモデルのポーズよりは、アラーキたぶんに、主観的な印象につき、どこまで理解していただける話であるのか、疑問ではあるが、うりざね顔の美人には泣いた顔や怒った顔は似合わないように思っている。

具体的にあげるならば、仲間由紀恵さんや鶴田真由さんなどがドラマで涙を流していたり辛そうな表情をしているシーンを見ると、ちょっとがっかりしてしまう。それは、誰であっても同じことではないかと問われると、永作博美さんだったら、怒っている顔も泣いている顔も笑顔と同じくらい魅力に思えるだけれど、と答えたい。

さて、歌手である一青窈さんの唄いっぷりは、最初にその唄う映像を見たときから、強いインパクトをもって記憶に残った。その木の葉を横に並べたような瞳。面長の聡明な面立ち。片目をつむったり、眉間と鼻筋をしわだらけにして相好を崩す。そして天に手を伸ばして感情を込めて唄うスタイルの組み合わせが独特だったからである。一青窈さんのあまりにもあからさまなその表現は、東京ガールズコレクションのモデルのポーズよりは、アラーキーの写真集の被写体の人物がみせる私生活的な表情に近い。 

....


 表現力という点では、まったくの個人的な才能ではあるのだが、その表現がいったいどこからやってきているのかが、少しばかり、自分にとってはなぞだった。

あるとき、羽田空港内の到着ロビーを歩いていると、大きな広告パネルが目についた。広告には、もちろんそれが、誰なのかはわからない。どうやら広東系である、中国の若い女優さんが、鼻筋に縦じわをつくって微笑むんでいるのだった。そのとき、一青窈さんが台湾人を父親にもつハーフであることを思い出した。

話を主題に戻すと、顔をくしゃくしゃにした表情が美人に似合うかどうかは好みの問題であったとしても、どうやら広東系の方たちには、あんな表情をする文化があるのではないだろうか。一青窈さんが少しオーバーに手を上に前にかざすとき、観世音菩薩の像が重なる。さて、あなたもこの唄に救われるだろうか。


                      2004 一青窈 ハナミズキ
2009.04.20 Monday

アイドルの辞め方

 アイドル評論家を標榜するつもりは、まったくないのだが、小泉今日子さんはアイドルを解放した功労者ではないかと、常々考えている。

のっけから言ってしまえば、キョンキョンは、アイドルもHをしてもよいことを、そのあっけらかんの印象と表現力で、世の中に知らしめたのではないかと思う。もちろん、特にそのような具体的な発言があったわけではない。自分だって恋をして、若き日を謳歌したいオーラが身体からはじけ、私には、そのように感じさせるのだった。

これによって、その後のアイドルは、かつてキャンディーズが心情を吐露したような記者会見を経ることもなく、自分の意思で、恋人宣言できた。アイドルのピークで結婚もできれば、アイドルを辞めていくこともできるようになったのだと思う。アイドルという名の奴隷の解放である。

。。。

キョンキョンのPVを見る。90年前後に流行ったであろう、耳元バッサリのショートカットが、パープルの口紅とともにちょっと痛々しく哀しい。ロングヘアであったアイドルが自己主張するためには、女ぽさだって、簡単に捨てられるというちょっと強気の時代のポーズが、ショートカットを余技なく強いてしまったように思える。

雅子妃殿下も確か、このような髪型で外務省に勤務されていたのを覚えておられるだろうか。皇太子妃殿下もアイドルである。そうすると、アイドルの源流を皇室アルバムであると仮定してみるとするならば、雅子妃殿下のご不幸は、アイドルを辞められないことにあるのではないかと思ってみたりもするのだった。

             1991 小泉今日子 あなたに会えてよかった

2009.04.16 Thursday

ポップスの力

まだ、自覚のある人は少ないのだと思うけれども、現代人の特長は、ナマの世界を生きているのではなくて、ポップスの歌詞の世界を生きていることにある。

現代人の不幸は、一個人のうれしいこと哀しいことに対して、世間からは何らの意味も価値もあたえられなければ、歴史上の意義もないことにある。 歴史的意義がないからというわけではないにせよ、日常生活では、単なる一個人の感情は、ぐっと抑制される。

うれしいこと、哀しいことがあっても、そのときに、感情の吐露が完了するのではなくて、その気持ちはどこかに心の深い井戸に放りこまれる。その後、何かのきっかけで、気持ちがシンクロするような唄を耳にするとき、井戸の底の思いは、感情の吐露として昇華して、ソラの高みに消え、ようやく、気持ちは野生に帰っていくのだ。

ナマの体験では、単なる一個人の凡庸で、うれしいこと、つらいことが、ポップスの力が化粧をして、ドラマの主人公にしたてるからである。


絶大なる支持を得ている竹内まりやさんの金曜ドラマ主題歌シリーズが不倫をテーマにしてるからといって、それが、直接的に、リスナーの羨望の的だからだとは考えにくい。ささやかな個人的なときめきの記憶に、ありそうな日常の1cm先のフィクションを重ねて、リスナーはもう1つの人生をいつくしんでいるのではないかと思う。

そんなポップスの時代は、諸説あるところは否定できないが、1975年の松任谷由美さんの「ルージュの伝言」で始まり、1980年の「SURF&SNOW」で確立する。そして、バルブの時代を経て、竹内まりやさんが、日常生活と一体不可分としてしまうのだ。


....


50歳を超えた竹内まりやさんが人生の扉を唄うとき、それは唄がうまいとか、どうかということではなく、私には、ポップスの力が、老いとかリタイアとかそういったものを世の中から消し去ってしまったような気になってしまい、それを私はポップスの力と感じざるをえないのだった。

         1994 竹内まりや 純愛ラプソディ
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