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2009.10.10 Saturday

川上弘美さんが高野文子を読む

 

川上弘美さんは、朝日新聞の書評委員を務められていた。 わかりやすい言葉で、大好きな本の言わんとするところを 切り出してくれる優れた読み手である。

お気に入りの高野文子さんのマンガについては、なかなか その感動を文章にすることができずにいたが、川上弘美さんがうまく説明してくれていたのを発見した。

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「美しき町」の中には、「黄色い本」の中には、しあわせだった 時間がある。緊張した、切実な、だからこそしあわせだった時間。
。。。
なぜならば、しあわせというものは、しあわせである瞬間には、たぶんしあわせであるということを認識できない、という不思議なジレンマを かかえるものであるからだ。そのことを、わたしは高野文子の作品を読みながら、いつも強く思う。
「しあわせである瞬間には、しあわせを感じる主体は自分がしあわせであることを認識できない」ということ。
。。。
だから、「美しき町」のサナエさんの思う「たとえば三十年たったあとで 今の、こうしたことを思い出したりするのかしら」という言葉は、二重の意味でかなしい。サナエさんは夫と徹夜で印刷作業を行いながら、しあわせを感じていた。徹夜の印刷作業はつらい。徹夜で印刷することの原因となった同僚のいやがらせにも腹はたつ。けれどそれらの苦みがあるからこそ、サナエさんと夫が徹夜でした作業の中にあったしあわせは、二人にとって陰影のある深いものとなった。

しかし、それは終わってしまったしあわせである。物語の中の今、サナエさんと夫がその余韻にあるとしても、やはりそれは終わってしまったものだ。サナエさんの手でも夫の手でも、その場では握りしめることのできない、ただ後から形を与えることしかできないものとしての、しあわせ。
。。。
それら全部をひっくるめて、高野文子の作品をわたしたち読者を「あの瞬間」に連れていってくれる。ほんとうの生活の中では、めったにとらえることのできない「あの瞬間」。

文章でだって、ほとんどうまく書けたためしのない「あの瞬間」。きっかりと、切り取られた、かけがえのなかった、瞬間。たとえ自分が虫よりも小さなとるに足らない存在だったとしても、かけがえのないあの瞬間だったのだ。

(川上弘美、「高野文子 棒がいっぽん」 書評集「大好きな本」から)
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高野文子さんの「美しき町」のコマ割は、上質な映画のそれのように、完成度の極みにある。エンディングのサナエさん夫婦が団地から夜景を眺め、夜景から、二人の顔のアップへ、そして、窓の外側から小さな一室の二人を映し、アパート全体像をパンする流れは、とても素敵である。

どうそ、だまされたと思って「棒がいっぽん」を、お読みください。

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