<< 聖地アキハバラ伝説 | main | 星一徹の晩餐 >>
2015.08.02 Sunday

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

2009.07.16 Thursday

諸星大二郎:換骨奪胎の実践

諸星大二郎のマンガを最初に読んだのは中学3年生のときだった。「暗黒神話」が、週刊少年ジャンプに連載されていた。一目、このマンガは筆に墨で書いているのではないかと思い、次に、「うしろの百太郎」を見るようにパラパラと頁をくり、しまいに、神話・民話を換骨奪胎した物語にあっという間に淫してしまったと記憶する。少年マンガでこんなことを描いて出版してよいのかと思った。

手塚治虫に代表される戦後の単純で明るいモダンな線画とは逆行するように、デッサン画のような暗いタッチとうねるような線は、呪術的で諸星好みの物語の主題に、幸福な合致をなしている。

さて、諸星大二郎のマンガを理解するキーワードは、フォルムを借りてきていることだと思う。つまり、諸星大二郎のオリジナリティは、曖昧模糊として不安にうごめいている無意識界をそのまま筆に何かが憑依したように、その中身を描写し、意味を与える才能にある。しかし、それが漫画なり、何らかの芸術表現として、アウトプットされるためには、何らかのフォルム=形式とめぐり合う必要があったのだと思う。やどかりのように。

まずフォルムとは、1つには物語の構造である。

初期のSFタッチのオリジナルの短編は、その才能を認められてはしても、すぐに世間と読者の評価を得ることもなかった。純文学を映画化したときにみられるような偉大なる失敗作と紙一重である。しかし、その後、孔子や日本の神話、グリム童話、さらには西遊記のような物語の形を借りることによって、初めて、その独特の線のタッチと不安・恐怖が、そのような不安を孕んだ存在でなければならない必然性、存在意義を得た。生き生きと怪しい魅力を放ち一定の読者を獲得するに至った。


まさに熟語の「換骨奪胎」を、字句どおり実践する如く、諸星大二郎は、神話、民話、説話の骨をとりだし、肉を奪い、その組み合わせによって、新たな世界を創造している。「暗黒神話」はその典型例である。

さらにフォルムとは魂をインストールする生身の肉体=入れ物である。

「暗黒神話」で古代王朝の姫君が不老不死の棺で二千年の眠りから覚めるとき、その肉体は、あっと間にドロドロに溶けてしまう。「生物都市」では、建物の中にヒトが溶け込んでしまい、「諸怪志異」では魔物の仕業でヒトが体を裏返されて、内臓が露わな姿とされてしまう。諸星大二郎の得意なモチーフは、無意識が生身の肉体をにインストールされて、生き生きと動き出すこと、そして、逆に、生身の人間も実はあっという間に腐敗してしまう不安定な肉塊であることを示している。

諸星大二郎の傑作、「西遊妖猿伝」は、西遊記を換骨奪胎した未完の傑作であるが、ここではもう1つのフォルムを得て、主人公が生き生きと活躍するシーンが見所である。主人公の孫悟空は、抑圧された民衆の怨念を身に引き受けた存在で、この漫画を味わう楽しみの1つは、戦乱と混乱の中、殺されていく民衆の怨念の固まりが閾値を越える場面である。

孫悟空の目は、カシャリと、別の人格(斎天大聖)へと変身し、おそろしくもダイナミックな暴力的装置として、敵も味方も見境もなく、破壊を尽くし、この世の中をリセットするかの如く暴れるのだった。ドラゴンボールでのスーパーパワーの発散は、これを範とするものか。

つまりは、民衆の怨念も孫悟空という人格のフォルムと、西遊記という物語のフォルムを得て、初めてのびやかに力を発揮し、それを描写した漫画は読む者の魂を奪ってしまうのだ。

邪悪なるものは、村上春樹さんの小説にも一貫するテーマである。私たちは、いつの時代にも斎天大聖に魂を奪われてしまう危険を孕んでいる。
2015.08.02 Sunday

スポンサーサイト

Calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< July 2019 >>
PR
Selected Entries
Categories
Archives
Recent Comment
Links
Profile
Search this site.
Others
Mobile
qrcode
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM