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2015.08.02 Sunday

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2009.07.26 Sunday

デカルトの脳サイエンス序説

ルネ・デカルトは近代哲学の父と呼ばれている。その功績は、1つには、物心二元論の導入により、大宇宙と小宇宙の人間は照合しているとする、中世からルネサンスまでのオカルト哲学を終焉させたことである。物と心を分離したことで、物だけは一気に、客観的科学的に取りあつかうことができ、いわゆる近代科学の礎となった。 

 
もう1つの功績は、「我思うゆえに我あり」である。あらゆるものを疑う方法的懐疑の結果、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」とし、人間の理性による思考活動によって真理に至る事が可能であるとした。

高校生の子供の参考書に、こういった内容が要約して書いてあったので、大きな間違いはないと思う。

さて、理論物理学に代表される近代科学の行き詰まり感の中で、脳科学は、少しづつ新たな発見があって、科学の希望を垣間見させてくれているように思う。 インド系脳科学者のラマチャンドラン氏の「脳の中の幽霊」は、彼の研究と臨床経験に基づく、知見とエピソードで、脳について新たにわかったことを楽しく説明してくれている。

特に、すでに事故等でなくなった腕や足がなお、存在して、痛みを伴う幻肢についての記載は興味深い。脳科学、特にラマチャンドラン氏の科学の楽しさは、そのアマチュアリズムの精神にあると思う。難しい知識や数学の理解がなくても、素朴な対照実験等を通して、まだまだ、脳のマクロは現象は解析可能であるというスタンスは好感が持てる。

すでに、深層心理学のフロイド博士の仮説や理論が、サイエンスによって補完、訂正されるようになってきた今日、より多くの人文系の思想も脳科学によって、補完され、よりよきものになっていくように思う。それは不幸ではないと思う。科学とはカールポパーの言うとおり、反証可能で、未来に知見によって否定されていくことに健全性を持ち、宗教的な原理主義と一線を画すものだからだ。


前置きが長くなったが、先のデカルトの、「我思う、故に我あり」とは、今日の脳科学的知見では、いったいどのような現象・行為なのであろうか。 「思う」を広く生理的感覚に拡張すれば、犬でもゾウリムシでも、「思う」ことになってしまうので、これをもって彼らの存在意義を認めてもよいのだが、彼らが、何か行動をもってして真理を追究することは考えにくい。

そうすると、「思う」とは、言語を使うことが必須がどうかはわからないが、少なくとも、大脳での一時性感覚野からの視覚、聴覚等の情報を処理し、一次運動野へ筋肉の動きの指令を処理する情報処理を現すとしても間違いないようだ。
 
もっとも「身体が考える」とする考えはあるだろうし、この場合には、運動機能を支配する小脳をもってして、「思う」という余地はあるだろう。
 
ここまでの理解では、「我思う」という記載が、大脳の前頭葉の動作であると、対応づけできた。 次に、「我思う、故に我あり」の主語は何だろうか。実は、これも「我 廚任△辰董◆峅罩∋廚Α廚硲欧弔痢峅罅廚あることに気がつく。表現によっては、再帰的または自己循環的に同じ「我」であるという言い方もできるのだが、よりわかり易く、別のものとしよう。

そうすると、「我 廚蓮大脳の前頭葉での情報処理の状態(考えているプロセス)を上層から観測している(考えていることを認識する)実体であることがわかる。 そうすると、、「我 廚蓮大脳の前頭葉の中でこのメタレベルの意識をつかさどる部位であるはずだ。

上述のラマチャンドラン氏や中田力氏の著作(いち・たすいち)ほかに紹介されているが、脳の機能を特徴的に示した有名なゲイジ事件がある。1848年鉄道工事の爆破事故で長さ100センチの鉄棒が労働に従事していたゲイジ氏の前頭前野を貫通した。

この不幸なゲイジ氏は、幸いなことに、ほとんど障害なく、その後の生活をすることができたが、不幸な事実は、その事故の後は、優秀で誠実な人格ががらりと変わってしまったことだった。 同じ顔同じ声で同じようにふるまうゲイジは、まったくの別人で、卑猥で、周囲への気遣いなく、頑固で、悪意に満ちていたという。要は、高度な理性、判断力というものが前頭前野とともに失われてしまったのだ。

つまり前頭前野は、理性と高度な言語活動をつかさどる部位であって、ただヒトという生命として生きるには必須なものではないのだ。
 
ここで、デカルトの、「我思う、故に我あり」に、これらの脳科学の知見を当てはめてみるとするならば、、「我 廚蓮∩案前野のことではないかと思う。

ずなわち、高度の言語活動の必然的結果として、意識の活動をするようになった前頭前野=我,蓮下位にある前頭葉の活動を監視するようになったと、たぶんに、素人の大胆な仮説を導くことができる。

そもそも、フロイドのいう深層心理で、あるいは、夢の中で、脳が活動しているとは、前頭葉のCPUがランダムに入力してくる信号を無作為に処理しているだけではないか、意識のないところ、そこに言語的な有意性がないのは当然である。

そうすると、デカルトの仮説「我思う、故に我あり」とは、現代の脳科学的知見をもって、言い換えると、前頭前野が、前頭葉での脳の活動を認識できるので、(理性をもってして真理に至る事ができ、それをもってして脳の存在意義があるのだ)といえるのではないか。

甚だ、根拠のない仮説ではあるが、「生きている意味は、自分で考えること」、と信じる私には、少しは価値のある脳の活動のアウトプットであればよいのだが。
2015.08.02 Sunday

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