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2015.08.02 Sunday

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2009.07.14 Tuesday

聖地アキハバラ伝説

70年代、日本の田舎に住むラジオ少年にとって、秋葉原は一生に一度は訪れたい聖地だった。 誠文堂新光社の発行する「初歩のラジオ」と電波新聞社の「ラジオの製作」は聖地から辺境の地にある神の子たちへの、伝道の書だった。ラジオ少年たちは、バイブルを目次からパーツ販売の広告の端々まで、しゃぶり尽くすように読み込んで堪能した。 部品の広告にはゲルマニウムトランジスタの品番が2SAXXと呪文のように並んでいるのだが、目が肥えてくると、その英数字の羅列の中で魅力ある番号だけが輝いて見えるのだった。

ラジオ少年の修行は、回路製作記事の熟読から始まって、部品の仕入れ、半田付けの実技に至る。辺境の地にも、一箇所か二箇所はホビー向けのラジオパーツショップはあって、ポピュラーな部品であれば、手に入れることはできたし、通信販売で子供への便宜を図って購入金額分に切手を同封で注文を受け付けるパーツショップもあったと記憶する。 地方でも手に入った発光ダイオードは、まだ、今日のように家電の必需部品ではなく、基板に直付けタイプではなく、ワッシャーと専用ナットで固定するものだった。cdsセンサで自動点灯する自作LEDランプは他には何も光るものがない室内で煌々と怪しい光を放っていた。
 
それでも、少し特殊な部品は、入手困難なことが多く、拙い電気の知識と半田配線技術は棚に上げて、ラジオ少年はその才能の限界を、そのキーパーツが手に入らないからだと、理由づけして納得してしまうのだ。バスに乗って秋葉原に行ける環境であればと。秋葉原という言葉は、大草原に孤高にしてそびえる要塞のように思えた。

ラジオ少年のメンタリティについての世間への表明は、ほとんど目にしたことはない。例外的に、「されど我らが日々」の柴田翔氏がその短編「ロクタル管」の中で、主人公のラジオ少年に真空管へのオマージュとして次のように語らせている。

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 そして、ぼくらの女の子に対するこういう態度のうちに、また逆に、自分らを美しさの具現者ではなく、追求者と厳格に位置づけたことのうちに、あの頃のぼくらが電気回路だとか真空管だとかによせた憧れの、いわば質といったものを考える、一つの示唆のようなものがありそうな気もするのだ。そして、あのロクタル管の美しさが結局のところ、そういう憧れの対象たる美しさの質を、目に見える形で一番よく代表していた。ロクタル管の美しさ自体は、いわば虚像の美しさであったと言えるかも知れない。しかし、その虚像を通じて、ぼくらの憧れが指向していたのは、あの、ぼくらが見ることなく信じうる、曖昧さの全くない、確定的な正確さを持った電気現象の世界だったのであり、まさにそれ故に、ぼくらにとってロクタル管は美しかった。
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ラジオの製作は、いわば錬金術に似た秘儀であって、少年がスーパーマンの能力を発揮でき、大人が介入できない王国だった。あとは、秋葉原に行くために東京の大学の電気工学科に入学してしまえば、その超能力は最終ステージでの仕上げを待つばかりである。 80年代、大学の電気工学科も、大衆化の時代を迎え、ラジオ少年の出身者はクラス全体の3割にも満たなかったと思う。どんなにマニアックな話題に盛り上がれるのかと期待するとフツウの優等生だったりしてがっかりするが、しだいに自分も興味がなくなってラジオ少年の肩書きはいつの間にかおろしてしまう。なんというか、東京にはもっといろいろとおもしろそうなことはあったし、電気回路の秘儀はグラフ理論と微分方程式に還元されてしまっていてタマネギの皮をむいたら何もなかった、というあっけなさもあったからだ。一部の友人がサンスイのアンプの部品を全部、交換したなどというのは例外に属するエピソードであった。

そのころの秋葉原は、まだバッタ屋から箱なしのテレビを購入することもできたが、しばらくすると郊外から発展した家電量販店の勢いにおされ、次々と老舗の電気屋が廃業しており、滅び行く街の印象だった。すでに少年時代の興味を失いかけた立場には、卒業した小学校が生徒減少で廃校になるのを都会で耳にするような複雑な心境だった。 その後、秋葉原に少し熱中したのは、真空管アンプの自作を始めたころで、当然に世間では製造は終了した真空管のデッドストックを物色し、キットガレージメーカーをひやかすのを楽しみに覚えてからだったが、とびきり音の素晴らしい伝説のウェスタン、RCA、マルコーニ、オスラム、等々の黄金時代の直熱管はマニア仲間が開拓した海外からの通販ルートの方が魅力だったので、しばらくすると秋葉原の熱は下がった。

秋葉原が復活を遂げたのは、パソコンの普及に伴い、それでまで秋葉原の部品屋には全く興味を示さなかった人たちが、秋葉原の路地裏の部品屋に汎用のメモリを買い求めて列をなすのを見かけたときに始まった。まもなくして、組み立てパソコンショップ増え、ある日、気がつくと、秋葉原駅前のラジオ会館のエスカレータを上っていくと、サトウ無線のフロアにフィギアが飾られたガラスショーケースに並べられていた。

いわゆるオタクが社会認知されたと同時に、自分がオタクかもしれないと思っていた人は積極的にオタクとしての類型化された行動を堂々と行うようになったと思う。そして聖地アキハバラでは無差別殺人の現場となってしまった。この趣味の街が、、、というコメントをテレビ番組に聞くとき、そこは特にそういう街ではなかったという反論はぐっとしまいこんでおく。 秋葉原をエルサレムに例えるならば、そこは似て非なる複数の宗教的信仰の整地であるといえる。

秋葉原は好きであるが今のアキハバラはあまり好きではないというオールドファンも少なくないかもしれない。しかたないのは、土地は1つであるが、そこに対する思い込みは複数であるというところだろうか。もっとも、それは東京が、昔からの江戸っ子と、戦後からの参入者と、その後、断続的に続く田舎者がやってきて住んでいる街であるという店では、東京もアキハバラ以上に、複数の思惑の存在する土地であるといえるかもしれない。

ラジオ少年の卒業生として、いまだなお秋葉原を愛するポイントが何かといえば、あの駅前とラジオデパートに軒を連ねるあの部品店のアジアンマーケットの活気である。直熱管の真空管からアナログラジオのバリコンまで、何でもあるあの雑踏である。

僕は世界にはまだ他に秋葉原があるのではないかと、東西を駆け回ってみた。ロンドンのトッテナムコート、マンハッタン、台北の電脳市場からシリコンバレーのサープラスショップまで。秋葉原に相当する電気街はどこにもなかった。 今となってみれば、秋葉原の喧騒は戦後復興と露天商の風景をそっくりそのまま継承していると言える。

あの部品ショップが健在であるかぎり、日本の電気産業も希望がもてる。秋葉原は、大草原を旅する者に行き先を示す道祖神の如く、日本経済のバロメータと変容してしまったようだ。
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