2015.08.02 Sunday

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2009.08.19 Wednesday

(続)リプロダクションは二度死ぬ

 


帰国時に、船便で日本に輸送し、日本の家屋には少し窮屈感は感じながら室内に収容した。日本の家具にはない重厚感とアンティークの風合いは、初老の大型犬のようで、その日から家族の一員のようになった。むしろ、部屋のほうが、日本ばなれした異国の空間に変貌したのだった。

その後、数年使っていくうちに、異変に気がついた。 まず最初に、天板の板の継ぎ目が現れた。購入時は気づかなかったのだが土蔵の引き戸のような天板は一枚板ではなく、丁寧に4毎の板が集成されており、電灯の光に照らされているうちに、集成された板がそれぞれわずかに異なる色へと変色した。 次に、塗装が磨耗していった。古色がかったウレタン塗装が、食器の熱や、消しゴムのカス、摩擦などによって、使い込んだところだけ、新品に板のように薄くなり、全体に見るとまだらになった。


新品の家具は、使い込んでいけば、古びてくるのだが、リプロダクションも、当然に古びていく。しかも、見かけ上の古びたメイクが剥がれて、ある種若返ったような古び方をするとでも言えようか。リプロダクションは、二度死ぬのだと。

アンティークの鑑定士に言わせれば、どんな贋物も、必ず破綻を備えているのだという。おそらく、アンティークショップで購入したアンティークの贋物であれば、集積板であることも塗装の後塗りであれば、購入数年後には、簡単にわかったことと思う。

まがい物のアンティークを購入したような失望感を特に感じたわけではない。むしろ、モノは嘘をつかないというのが、気持ちよく納得された。ようやく、これから実際に使った分だけ古色がかっていくことになった訳である。 最近はビンテージリーバイスのリプロダクションも良く見るようになったが、あれらのジーンズはどのような形で二度死ぬのだろうか。
 
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2009.08.18 Tuesday

リプロダクションは二度死ぬ

 


ダイニングテーブルの話である。

自宅で使っているダイニングテーブルはパロアルトのStanford Shopping CenterにあるCrate&Barelで購入した。フレンチカントリーというよりは、アンティーク家具のリプロダクションに分類される。

横幅2メートルの天板から図太い足まで、角は荒削りに面取りされている。塗装はウレタン塗装だが、オイルフィニッシュのようなつや消しの仕上げである。中学生が図工室でシンナーを重ね塗りしたような、ユーズド感を醸しだしいた。おまけに、天板の表面は、作業台に利用したような刃物の痕が、ランダムに施されていた。要は、使い古されたようなアンティークの質感が満遍なく発揮された新品商品だった。

セットになった椅子は、同じく野趣あるふれた塗装仕上げで、座面は、シェーカー家具に見られるような編みこみだった。何より、背もたれにせよ、足にせよ、図太いところが好印象だった。どのような様式なのか、長いこと疑問だったのだが、ある日、芸術新潮に掲載されたゴッホの絵にほぼ同じような椅子が描かれており、スペインのアンダルシア地方の様式と知った。



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2009.08.12 Wednesday

魔法が解けた話

 


幼いころからのモノ好きが嵩じ、長じてアンティークコレクターとなった。関心の対象は総じて、古道具なので、散財とか贋作とはあまり関わりなくすんでいる。

 古色蒼然とした骨董業界も、柳宗悦の拓いた民芸、中島誠之助先生の作った古伊万里ブームを経て、平成の時代にはニューウェーブというトレンドを形成するに至った。これは、造りの精巧な「上手もの」ではなく、和物、西洋アンティークの区別なく雑器、雑貨などの「下手もの」の少し古びた味わいを素直に楽しもうというものである。


最近では、古民家や廃材を使った居酒屋の内装も珍しくないが、ここにもその影響を見る。 東京であれば、地下鉄のアクセスが可能となった麻布十番や、中央線沿線に、ニューウェーブ系の骨董店をたやすく見つけることができる。 贔屓にしているお店には、ある店では能舞台のような店内に和ダンスに白熱電灯と古伊万里が飾られていた。またある店では、川瀬敏郎氏がよく花器に利用しているという錆びた水道管が、現代美術に劣らない存在感でリピーターを惹きつけていた。
 
ある日、薄暗い店の棚に、鍍金がきれいに剥げ落ちて真鍮がむきだしとなった小皿を見つけた。黒光りするピューターよりは、まだ若々しさの残る地肌が魅力的で、水盤にでも使おうと購った。 自宅に帰り、近くで摘んできた青葉を添えてみると、清涼感が梅雨でうっとしい空気を静謐ある空間に変えてくれた。真鍮の硬質感が青葉とバランスして、ちょっと静物画のようだった。満足した。
 
ところが、次の日は、天気もよく、室内にも外の光が差し込むようになると、真鍮の皿は、いつの間にか、ただの少しよごれた古皿へと変貌した。少し驚いて、日差しの差し込まない北向きの部屋にもっていくと、小皿は少しだけもとの魅力を取り戻した。また、元の部屋へ戻ると、オーラは消えた。魔法が解けたと思った。

もっとも、光沢感や質感が味わいどころのモノは、どのような光の空間で愛しみ、観賞するか、が及ぼす影響は大きいのは間違いなく、魔法が解けたというのも、決しておおげさな表現ではない。美術館で見る仏像のお顔はライティングで表情が随分と変わってくるのは、よく知られた事実である。

ここまではわかったとしても、シニカルな読者ならば、次のように哲学的な問いを投げかけてくるだろう。その日差しの中の小皿と薄暗い部屋の中の小皿では、どちらが真実の小皿なのだろうかと。 現代思想の知見を総動員することなく、小皿の美しさは、その周囲との関係の上でしか語れない、とここでは答えるに留めておこう。

骨董業界のニューウェーブは、目白に店を構える坂田古道具店の店主が、業界の若い世代に与えた影響が大きい。坂田さんは、古来、茶人が愛玩したオランダの17世紀のデルフトの乳白の皿や小瓶を運河から発掘するルートを開拓し、平成の好事家の目をさらった。坂田さんが好んで仕入れるデルフト白釉陶器のとろりとした乳白色は、現地では模様もなくてはboringだと言われるそうだ。

実際のところ、地中海の日差しの中では、デルフトの白釉陶器は古代ギリシアの神々の目に適うところではない。 そんなわけでは、オランダ生まれの17世紀のデルフトの白釉陶器は、300年の後、はるばるとシルクロードを東に、1万キロ、日差しのゆるい日本で、障子越しの明かり越しに物を愛しむ谷崎潤一郎氏のいう「陰翳礼讃」の世界で評価されるに至ったといえる。
 
漆器の美しさは、幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を囲む暗黒の中から必然的に生まれ出たもの」である(「陰翳礼讃」)

さて、個人的な事件の顛末に関しては、少しだけ続きがある。ホームページに掲載していた書き込みを見て、共感したとニューヨークに留学中の女性がメールをくれたことがある。そのやりとりの中で、実のあのお店で買った古皿はと、件の魔法が解けた話を打ち明けた。彼女は、そういうことは確かにあります、けれども、音楽鑑賞と同じように、その古皿がよかった、悪かったのではなく、ものを美しいと感じた体験そのものではないでしょうか、とコメントしてくれた。
 
読者諸兄においても、見るにおいては、対象が人でもモノでも、明るければ、近ければ、よいのではないことを念頭におかれんことを。

僕は、街で美人を見つけたときは、ちょっと木陰で、少しだけ距離をおいて鑑賞することにしている。 


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