2015.08.02 Sunday

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2010.11.23 Tuesday

自分が見たいものを見ている

 、、、実は分子生物学者が顕微鏡の向うに見ているのは科学者自身の自画像ではないかと書いたことがあるんです。科学者がある種の透明な理性であり、その前に客観的現象が出来してくるというのではなく、実は科学者もまるごと対象に投影して、自分を通じて自然現象を捉えているのではないかという気がしたのです。、、、

「二重らせん」を発見したワトソンとクリックは「コンビ」で行動すると、スタンドアローンで行動する場合よりもパフォーマンスが高いことを実証してみせました。これは明らかに彼らが発見した「二重らせん」がなぜペアを持っているかの説明になっている。つまり「二重らせん」の発見者ペアは顕微鏡の中に、それと知らずに「自分たち自身の肖像」を透視していたんじゃないか。

(内田樹x福岡紳一 グルグル回ること 後編 「考える人」2010年夏号)

2010.11.21 Sunday

自分探しと細胞

、、、 私たち多細胞生物は、脳細胞、肉細胞、骨細胞、、、とそれぞれ専門分化しています。でも、もともとは精子と卵子が合体してできた受精卵から分化するわけです。 、、、細胞がどうやって将来を決めているかというと、パスをし合って決めるんです。あるいは、空気を読みあって決める。、、、もし隣の細胞が「ハイ、ぼくは筋肉の細胞になります」と最初に手をあげたら「じゃあ、私は と最初に手をあげたら、「じゃあ、私は神経の細胞になりましょう」 、、、つまり細胞は、周囲の細胞によって自分が決まる。 私も内田先生も、大学で学生を教えていますが、学生は一生懸命に「自分探し」をしています。でも、自分は自分自身の中に探してもいません。自分の中には「自分」はいないのです。細胞が何の細胞になるかは、あらかじめ内部的に決決められてはいない。、、、自分の中に自分を探しているとどうなるかというと、 永遠の旅人になる。 「自分」というのは、「 他者」と差別化されることではじめて生まれる概念ですからね。 (内田樹x福岡伸一 グルグル回ること 「考える人」2010年夏号)
2010.02.13 Saturday

内田樹氏 友愛とブリコラージュ

 雑誌「ENGINE」で内田樹氏が著作の「辺境論」についてインタビューを受けていた。

内田氏は精力的な執筆で著作は多く、独自の語りで幅広い評論を展開している。
上述の著作は、ちょっと読んでみたのだが、日本がグローバルスタンダードを確立しえない
本質論を語っているように感じた。ただ、内田氏の持論展開には、橋本治氏に共通するような
易しそうで理解しにくいレトリックもあってか、深いところはまだくみ取れていない。

ENIGINEでは、写真家にうまく撮ってもらったようで、かっこよいポートレートが載っていて、
同誌の編集長の鈴木氏からインタビューの展開で鳩山首相の友愛論について言及しているのだが
こちらのほうがおもしろかった。

内田氏は、友愛論とは、市場主義と格差社会の結果として、持つものと、もたざるものに二極化した社会の反動として現れた旨の主張をしている。

市場原理ではバランスのとれなかくなった富の分配を持つものからの施しが友愛というべきらしいのだ。

確かにそのような施しはあってしかるべきなのだが、内田氏によれば、社会はますます、ポスト市場主義の失われた20年が続くようだ。

内田氏は、また、これからの時代はブリコラージュ(レヴィ・ストロース)であるべきだと説く。つまりは、何か新しいもの(SomethingNew)が常に正しいというのはもうやめて、ありあわせのもので、なんとかやって過ごしていくことにほかならないと。。

全くの個人的趣味での言及にしか過ぎないが、私は、デジカメ時代のいくつかの新しいレンズマウントのフォーマットによって、ごみになってしまっていた銀塩時代のレンズを使いまわせるようになったことに、ブリコラージュの悦びと可能性を感じる。資源の活用と新たな悦びである。

資源とは最初から絶対的に資源であったのではなく、人間との相対的関係で始めて資源となるのだ。たとえばガソリンが爆発しやすい危険な油であったのが、エンジン機構の発明で資源となったように。


2009.12.14 Monday

物を支配する権利 人を支配する権利

 


支配するとは、どういうことだろうか。

民法を勉強すると、物の売買、所有といった視点から
人が物を支配することについて法律的に規定されていることがわかる。

物を支配する権利は、物権と呼ばれ次のように規定されている。

所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分
をする権利を有する(民法206条)。処分とは、要は、売ったり買ったり、
破壊するといった行為をいう。

物権は、独占排他的な権利であるので、共有を除き、重畳的に二人以上が
物を支配することは、ない。そうしないと社会的に混乱してしまうし、
今の時代では当然のことではあるが、近代以前には、土地については、領主
や幕府、等々の重畳的な支配のもとで、土地が誰のものか、誰が使って
よいかなどは、とても複雑な関係にあったと聞く。つまりは、近代化はそのような
旧態化した関係を絶対的な単純な支配に置き換えたのだと理解できる。

今となっては当然のことではあるが、支配の対象は物である。無体物も
含むが、人が含まない。

ローマ法まで遡らないにしても、この支配する権利は、かつては奴隷にも及んだ
はずだ。近代ではあからさまな奴隷という概念はなくなっていたとしても、
人が人を所有するに等しい隷属関係はあったことを想像できる。

民法が所有物を自由に支配できる、と記載しているのを読むと、なんだか
この文章をもってして、それまでの人が人を自由に支配できる、ということ
はもうやめようと、人と物の分離を宣言しているような気がしてくる。
2009.09.17 Thursday

村上春樹と三島由紀夫をめぐる 2

 

さて、村上春樹氏は、小説家になるに至った経緯をいくつものエッセイ等で披露しているとおり、学生結婚のまま、就職することなくジャズバーの経営を始め、作家活動に専念するまで10年ほど続けている。デビュー作「風の歌を聴け」までのころだ。

その村上春樹氏は、小説を書くことについて、ジャズバーでの全くの肉体労働の実生活が糧になったと力説しているのを目にする。そして、小説家になるため、または、よい文章を書くためには、という質問に対しては、次のような趣旨の回答を記している。

僕は経験を通してしか、考えることができない。語ろうとする、または書こうという意思があれば、そこに経験を重ねていくことで、いつかは、うまいヘタは、ともかく自分の文章が書けるようになると。

こうして、一昔前と、現代のノーベル文学賞候補の小説家、二人の創作活動に対する実生活の影響という視点の差を少し語ることもできそうだ。

三島由紀夫氏の言によれば、詩人の魂なるものが、まずあって、これを夾雑物から取り除いていく課程として、実生活の必要性を認めているようにみえる。

一方、村上春樹氏は、語ろうという意思があるところ、経験がその語るべきものを形成していくという意味で、実生活の必要性を認めているようにみえる。

いみじくも、村上春樹氏は、三島由紀夫のクーデーター未遂事件のときには、大学生で、おそらくは、狂信的に、自分の美意識を世界にあてはめようとする三島由紀夫氏の行動・思想には、嫌悪するところがあったらしく、彼の小説は評価しないと公言している。

詩人の魂の原石があるとするならば、三島氏のそれは実生活で汚されていくことを認めても、それに抗したかったのだろうし、村上氏は最初から、実生活やポップな日常社会の中から生成させようとしたのだ、と言えるかもしれない。

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2009.09.16 Wednesday

村上春樹と三島由紀夫をめぐる

 
三島由紀夫氏はある短いエッセイの中で、小説家は、創作活動のためには実生活で揉まれるべきかについて少しだけ語っている。

「。。。いかに実生活の分野でたたかれきたえられてもどうしようもよごれる事のできないある1つの宝物、それが作家の本能、つまりは詩人の本能とよばれるものである。(三島由紀夫:生きる意味を問う)」

小説家は誰でもがなれるものではないという前提の元、小説家以外の適性があるかどうかはっきりしてから小説家になっても遅くないとの、持論の後で、上述のように述べているのだ。

その後の文章は、フロベールが法律の勉強経験があること、森鴎外はまったくの軍医との兼務であること、バルザックは1日18時間小説を書いたことなどへの言及に移るのだが、その「詩人の本能」とやらについては、上記エッセイではあまりそれ以上説明はない。

小説家の創作活動にとって実生活がプラスになるとの三島由紀夫氏のコメントは、盟友、澁澤龍彦氏が引用するリラダンの「生きることなど召使に任せておけ」などを考えると、意外な気もする。



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2009.09.15 Tuesday

文体の選び方 バルザック、Wikipedia

 

インターネットの普及の結果と思うのだが、人の文体について気がついた。

2CHへの書き込みは、発言者がこぞって2チャンネラーと化してしまので、同一人物でないかと思うほど、その書き込みの口調が似ている。2CHでの独特の言い回し、決まり文句を除いた部分にあっても、書き込みの内容は類型化するし、その文体も類型化しているのだ。

人は誹謗中傷をすると個性を失ってしまうのだろうか。

Wikipediaを見ると、どの文章も簡潔に表現されており、見事な表現である。どれも専門家が書いたように文章の癖がないし、文章を寄稿している人の個性は見えない。

披露宴の祝辞ではないが、ちょっと背筋を伸ばしたTPOでも、少し没個性化するように思える。

一方、いろいろな方のブログを拝見すると、もう文体のスタイルは一目瞭然であって、うまい下手はともかく、著作権法の唄うところの個性の創造力の発揮を見る。

バルザックの「人間喜劇」は藤原書店の選集でも全3000ページに至る大作であるが、「ナニワ金融道」と「渡る世間に鬼はなし」を足したような19世紀の市民の波乱万丈を描いてめっぽうおもしろい。 いささかの過剰な前ふりを文学だと思って少しだけがまんすれば、こんな豊饒な市民描写があるのかと驚くほどである。市民社会が完成した19世紀パリの類型化した市民の人物と風貌の描写が圧倒的であり、そこには、近代になってばらばらとなった個人を典型的な人物像の類型化(パターン化)によって定義しようとする情熱を感じる。

インターネットにおける文体の没個性化=類型化というのも、バルザックの描いた1つの近代市民の類型のように思える。それは、インターネットの中の1つのソサエティに参加するときに、人は無意識に類型的な没個性の仮面をかぶるからではないだろうか。



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2009.09.13 Sunday

本の流刑地2

 
一方、古典の書物は、百年以上の歳月の中を、その時代ごとの読者に可愛がられてきただけあって、生き残りという点でしぶといと思う。

現代のエンサイクロペディストの種村季弘氏が、活気があったころの「ブルータス」に連載していたコラムに、先の戦争中の新刊書の供給事情を生々しく記載している(「書国探検記」)。

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本屋で新刊書を売っているという事件は実にひさしぶりだった。昭和十七、八年頃までは近所の本屋で吉川英治の「宮本武蔵」を全巻立ち読みできたのだが、十九年に入ると本屋の書棚はにわかにガラあきになり、どのみち売れ残るしかない岩波文庫のギボン「ローマ帝国衰亡史」だの、マルクス・アウレリウス・アントニウス「自省録」だのが、しらじらと片隅に身を寄せていた。商品がないのは本屋の話だけではなかったが、売れ残りしか置いていないガランとした書店は殊のほか荒涼感をそそる。
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そして、戦火をくぐりぬけてきたマルクス・アウレリウスは、あのセロハン紙のカバーから光沢あるクリーム色カバーの青帯に姿を変えて、今なお、書店の本棚で見ることができる。

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人間の生命にあっては、その歳月は点であり、その質料は流動するもの、感覚は混濁し、全肉体の組織は朽ちやすく、魂は狂乱の渦(うず)であり、運命は窺(うかが)いがたく、名声は不確実である。これを要するに、肉体のことはすべて流れる河であり、魂のことは夢であり煙である。人生は戦いにして、過客の一時(いっとき)の滞在であり、後世の評判というも忘却であるにすぎない。(自省録)
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哲人皇帝アウレリウスは、自らの死後も、自分の書いた自省録だけは、時代を越えて死なずに生きながらえることを予言していたかのごとくである。なるほど、アウレリウスはいつも立派であるが、バックアップとレイドで多重化されて、データが確実に格納されていくインターネット上のプロバイダのサーバーに保存されていき、世間の目にさらされていくブログ・日記は幸せだろうか。



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2009.09.12 Saturday

本の流刑地

 

売れなかった本はどこへ行ってしまうのだろうか。再販価格制度のおかげで、注文以上の印刷が可能となっている現在の書物は、賞味期間がすぎると回収され裁断されてしまう。

最近の書店での買取を前提とした自由価格本を除けば、本は実力以上のボリュームを市場に投入されうるメリットと表裏一体の関係で、裁断という屠殺場行きを選んだと、少しグロテスクな表現もできる。

図書館に収められた本は、幸福だろうか。図書館を利用される方は、同意される方も少なくないと思うのだが、ベストセラーの新刊書は、3ヶ月以上の予約待ちで、順番が来たころには、読む意欲がいささか旬を過ぎてしまう。

穴場の図書館が見つかれば、思い切り好みの新刊書を購入リクエストすることも可能なのであるが、概して、新刊書がごっそり貸し出された図書館の棚は、ふた昔前のベストセラーと文学全集と図書館以外に購入先がなさそうな実用書、専門書ばかりである。建物のぎこちなさも、いささか老人ホームの体に見えないこともない。

古本屋はどうだろうか。昨今では、大手出版社の売り上げの多くを新古書としてもっていってしまった大手チェーンBなどは、客の出入りも、在庫の回転も好調に見える。ところが、100円均一の棚を見ると、特にamazonマーケットプレイスへ出品する「せどり」者たちに掘り出し物は抜き去られてしまったあとは、なんとも哀しくなるような棚の品揃えである。なぜ好き好んで、かのうようにベストセラーと義理で購入したような実用者ばかりであるのか、これは本の流刑地ではないかと。本の天を白くする裁断加工機は、まるでカフカの流刑地の機械のようだ。

本来、処分されて流通市場から姿を消しているはずの商品が生き残っているのが100円均一の本であるとすると、新刊書のニオイの残したまま裁断されてしまった本とではどちらが幸せだろうか。少なくとも、いずれにしても、好事家が思わず手にとって私財を投じてまで、家に持ち帰って次の代まで、保管したくなるほどに、ハードウェアのモノとしての魅力を持ち合わせていないのも、現代の消耗品としての不幸であろうか。


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2009.08.21 Friday

(続)全共闘:1Q68の秘密

 


1971年には中沢新一氏(宗教学)、植島啓司氏(宗教学)が入学しており、1972年の四方田氏、同期でオームサリン事件で渦中の人となった島田裕巳氏(宗教学)等とともに、宗教学の柳川研究室に所属していたと聞く。

1971年以降の、全共闘運動の末期の連合赤軍の榛名山キャンプので総括事件については、昨年、若松孝二氏(映画監督)の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(映画、DVD)が詳しい。

村上春樹氏のデビュー2作目は、「1973年のピンボール」で、タイトル名は、大江健三郎氏(小説家)の「万延元年のフットボール」を意識したと聞く。やはり全共闘の後の、時代の喪失感が基底に流れているような読後感が強い。

全共闘世代と言えば、吉本隆明氏が、当事者たちの思想的バックボーンにあったと聞く。その後10年近くあとになって、角川文庫版で「共同幻想論」に出会った自分たちの世代としては、やはり、肝心のところがピンとこないというのが正直なところであった。著作集を購入して、勉強してみるとまでの義理も必然性もなくニューアカデミズムの80年代から20年以上たってしまった。

前述の鹿島茂氏は、荒俣宏氏(博物学)と競い合って、神田の田村書店で、イラストレーテドブックを購入していたコレクターと思っていた。ところが、これまで一言でも著作では語ったことのない、当時のことと吉本氏の思想を、一気に新書に書き下ろしたので、思わず、購入してしまった。

タイトルも「吉本隆明1968」(平凡社)だった。

やはり左翼用語は解説つきでも理解しにくいのだが、高村光太郎論のくだりでハッと気づかされる展開だった。




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