2015.08.02 Sunday

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2009.09.18 Friday

ダンディズムの城

 

熊本まで足を延ばし、熊本城を見た。なるほど評判どおりの重厚な造りは、黒のダンディズムだった。石垣は、表面が見事なフラットに仕上げられ、組み合わせも精緻、武者返しのゆるやかなカーブも優美だった。天守閣は、黒の下見板を基調として、品格ある姿をみせていた。

天守閣とは、戦いの基地であるとともに、為政者の権威のシンボルであろう。それではなぜ、戦いのための機能を極めるだけでなく美しいなければならないのだろうか。

為政者のシンボルとすれば、それは美しく強いものへの圧倒的な服従と畏敬のためであることはよくわかる。

戦いの基地であるためにも、美しくなければならない理由があるだろうか。
何ら依拠する文献も見当たらないのだが、美しさが、敵を圧倒するのではないか。三島由紀夫や澁澤龍彦が書きそうな気もするのだが。

世間で認識されているような理解の、武士道、にはいささかの反発があるのだが、なるほど、城の美しさも武士道の現われだろうか。

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2009.08.31 Monday

(続)自転車天国



それ以来、自分から対向車をさけるようにしたので、接触事故はなくなったが、向かってくる自転車はたいてい5メートル前でも減速しないことが多い。雨の日もレインウェアか傘の他はほとんど同じである。

マナーといえば、それまでなのであるが、ロハスとかスローライフとか、そんなことに関係なく、自転車天国を素朴に夢想していた身にはちょっと幻滅というのが正直な感想だった。

東京では、車道からははじき出され、歩道の歩行者の後ろ申し訳なく走っている自転車族も、歩道が広くなって、とばすことができるようになると一挙に歩行者には傍若無人な王様になってしまうのだと。

大げさに言えば、それまでの弱者がいきなり強者になって自分よりも弱いものをいじめる、そんな構図といえば、自分にはインドシナ半島の歴史を説明した別冊宝島の特集を思い出させる。

長いことタイやベトナムの侵略を受けていたカンボジアではシアヌーク失脚後、悪名高いポルポトの大虐殺が起こる。一方ベトナムは、米ソの冷戦の体制化、南北に分かれた代理戦争の戦場と化してしまう。そのベトナム戦争において、韓国からの遠征軍は、旧日本軍と同じような暴力行為があったと聞く。

自転車の話に戻ろう。ガソリンがあと2、30年で枯渇するようになれば、政策レベルでなく、実質的に自家用車はペイしなくなるので、今、道路を我が物顔に走る自家用車は気持ちよく一掃されるはずだ。ここからは個人的推測に過ぎないが、化石燃料を無尽蔵に使えないことを前提とした社会は、更に、都市は縮小過密化して、不用意なヒトの空間移動を回避すると考える。ヒトそのものも遺伝子治療で1/2〜1/3にダウンサイジングされる可能性も考えられる。

公共の移動手段を除くと、道路の主役は電気モーター補助付の自転車か、電動アシスト付のスケートボードのようなものになるのではないか。そうすると、歩道の方は自転車はいなくなるのだが、そこでまた新たな、歩道の主権争いが起こるような気もする。それが歩行者と誰の争いなのかは、わからない。ひょっとしたら、電動車椅子の戦いだろうか。


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2009.08.30 Sunday

自転車天国



福岡の街は、自転車天国である。 繁華街の中心の天神へ向かう渡辺通りは、片道三車線で、左右の歩道には街路樹が余裕を持って植えられている。ロフト、電 気ビルを通通して西鉄の隣の薬院駅の交差点までは、8メートル幅の歩道を3台の自転車が列をなして走行可能である。薬院の交差点から先も4メートル幅の歩 道が続き、最近ようやく、日赤病院前の慢性的な工事が片付いたので、大橋の駅ぐらいまで、一気に20分弱で自転車で跳ばせる。

パリで言えばマロニエのシャンゼリゼ通りに沿って凱旋門までをちょっと思わせる都市計画。東京でいうなら中野坂上あたりから新宿の副都心ビルを横に、新宿まで、障害物なく自転車で買い物に来ることができるような恵まれたアクセス環境といえる。

街全体が小さいこともあって、自転車と都市機能が融合した空間には好感が持てた。そもそもエコロジーを国として推進するならば、贅沢品に過ぎない 自家用車には、政策的な課税を増やして、公共機関以外の交通はイギリスに見られるような自転車道の整備をと、思っていた自分にとって、手ごろな大きさの空 間を自転車で移動可能とした都市計画は、なかなかよろしいと、引っ越してきて思ったのだった。

ところが、実際に自転車を利用してみると、問題が潜んでいることにすぐに気がついた。最初の1週間目に、歩道を自転車走行していると、走行方向が 逆だ、俺の通る邪魔をするな、反対方向から来た自転車に因縁をつけられた。ゆっくり走っていたら、後ろから高校生に自転車が接触して押されバランスを失っ た。勤務先の構内で道を横断していたら、自転車は止まらずにぶつかってきた。

続く

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2009.07.14 Tuesday

聖地アキハバラ伝説

70年代、日本の田舎に住むラジオ少年にとって、秋葉原は一生に一度は訪れたい聖地だった。 誠文堂新光社の発行する「初歩のラジオ」と電波新聞社の「ラジオの製作」は聖地から辺境の地にある神の子たちへの、伝道の書だった。ラジオ少年たちは、バイブルを目次からパーツ販売の広告の端々まで、しゃぶり尽くすように読み込んで堪能した。 部品の広告にはゲルマニウムトランジスタの品番が2SAXXと呪文のように並んでいるのだが、目が肥えてくると、その英数字の羅列の中で魅力ある番号だけが輝いて見えるのだった。

ラジオ少年の修行は、回路製作記事の熟読から始まって、部品の仕入れ、半田付けの実技に至る。辺境の地にも、一箇所か二箇所はホビー向けのラジオパーツショップはあって、ポピュラーな部品であれば、手に入れることはできたし、通信販売で子供への便宜を図って購入金額分に切手を同封で注文を受け付けるパーツショップもあったと記憶する。 地方でも手に入った発光ダイオードは、まだ、今日のように家電の必需部品ではなく、基板に直付けタイプではなく、ワッシャーと専用ナットで固定するものだった。cdsセンサで自動点灯する自作LEDランプは他には何も光るものがない室内で煌々と怪しい光を放っていた。
 
それでも、少し特殊な部品は、入手困難なことが多く、拙い電気の知識と半田配線技術は棚に上げて、ラジオ少年はその才能の限界を、そのキーパーツが手に入らないからだと、理由づけして納得してしまうのだ。バスに乗って秋葉原に行ける環境であればと。秋葉原という言葉は、大草原に孤高にしてそびえる要塞のように思えた。

ラジオ少年のメンタリティについての世間への表明は、ほとんど目にしたことはない。例外的に、「されど我らが日々」の柴田翔氏がその短編「ロクタル管」の中で、主人公のラジオ少年に真空管へのオマージュとして次のように語らせている。

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 そして、ぼくらの女の子に対するこういう態度のうちに、また逆に、自分らを美しさの具現者ではなく、追求者と厳格に位置づけたことのうちに、あの頃のぼくらが電気回路だとか真空管だとかによせた憧れの、いわば質といったものを考える、一つの示唆のようなものがありそうな気もするのだ。そして、あのロクタル管の美しさが結局のところ、そういう憧れの対象たる美しさの質を、目に見える形で一番よく代表していた。ロクタル管の美しさ自体は、いわば虚像の美しさであったと言えるかも知れない。しかし、その虚像を通じて、ぼくらの憧れが指向していたのは、あの、ぼくらが見ることなく信じうる、曖昧さの全くない、確定的な正確さを持った電気現象の世界だったのであり、まさにそれ故に、ぼくらにとってロクタル管は美しかった。
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ラジオの製作は、いわば錬金術に似た秘儀であって、少年がスーパーマンの能力を発揮でき、大人が介入できない王国だった。あとは、秋葉原に行くために東京の大学の電気工学科に入学してしまえば、その超能力は最終ステージでの仕上げを待つばかりである。 80年代、大学の電気工学科も、大衆化の時代を迎え、ラジオ少年の出身者はクラス全体の3割にも満たなかったと思う。どんなにマニアックな話題に盛り上がれるのかと期待するとフツウの優等生だったりしてがっかりするが、しだいに自分も興味がなくなってラジオ少年の肩書きはいつの間にかおろしてしまう。なんというか、東京にはもっといろいろとおもしろそうなことはあったし、電気回路の秘儀はグラフ理論と微分方程式に還元されてしまっていてタマネギの皮をむいたら何もなかった、というあっけなさもあったからだ。一部の友人がサンスイのアンプの部品を全部、交換したなどというのは例外に属するエピソードであった。

そのころの秋葉原は、まだバッタ屋から箱なしのテレビを購入することもできたが、しばらくすると郊外から発展した家電量販店の勢いにおされ、次々と老舗の電気屋が廃業しており、滅び行く街の印象だった。すでに少年時代の興味を失いかけた立場には、卒業した小学校が生徒減少で廃校になるのを都会で耳にするような複雑な心境だった。 その後、秋葉原に少し熱中したのは、真空管アンプの自作を始めたころで、当然に世間では製造は終了した真空管のデッドストックを物色し、キットガレージメーカーをひやかすのを楽しみに覚えてからだったが、とびきり音の素晴らしい伝説のウェスタン、RCA、マルコーニ、オスラム、等々の黄金時代の直熱管はマニア仲間が開拓した海外からの通販ルートの方が魅力だったので、しばらくすると秋葉原の熱は下がった。

秋葉原が復活を遂げたのは、パソコンの普及に伴い、それでまで秋葉原の部品屋には全く興味を示さなかった人たちが、秋葉原の路地裏の部品屋に汎用のメモリを買い求めて列をなすのを見かけたときに始まった。まもなくして、組み立てパソコンショップ増え、ある日、気がつくと、秋葉原駅前のラジオ会館のエスカレータを上っていくと、サトウ無線のフロアにフィギアが飾られたガラスショーケースに並べられていた。

いわゆるオタクが社会認知されたと同時に、自分がオタクかもしれないと思っていた人は積極的にオタクとしての類型化された行動を堂々と行うようになったと思う。そして聖地アキハバラでは無差別殺人の現場となってしまった。この趣味の街が、、、というコメントをテレビ番組に聞くとき、そこは特にそういう街ではなかったという反論はぐっとしまいこんでおく。 秋葉原をエルサレムに例えるならば、そこは似て非なる複数の宗教的信仰の整地であるといえる。

秋葉原は好きであるが今のアキハバラはあまり好きではないというオールドファンも少なくないかもしれない。しかたないのは、土地は1つであるが、そこに対する思い込みは複数であるというところだろうか。もっとも、それは東京が、昔からの江戸っ子と、戦後からの参入者と、その後、断続的に続く田舎者がやってきて住んでいる街であるという店では、東京もアキハバラ以上に、複数の思惑の存在する土地であるといえるかもしれない。

ラジオ少年の卒業生として、いまだなお秋葉原を愛するポイントが何かといえば、あの駅前とラジオデパートに軒を連ねるあの部品店のアジアンマーケットの活気である。直熱管の真空管からアナログラジオのバリコンまで、何でもあるあの雑踏である。

僕は世界にはまだ他に秋葉原があるのではないかと、東西を駆け回ってみた。ロンドンのトッテナムコート、マンハッタン、台北の電脳市場からシリコンバレーのサープラスショップまで。秋葉原に相当する電気街はどこにもなかった。 今となってみれば、秋葉原の喧騒は戦後復興と露天商の風景をそっくりそのまま継承していると言える。

あの部品ショップが健在であるかぎり、日本の電気産業も希望がもてる。秋葉原は、大草原を旅する者に行き先を示す道祖神の如く、日本経済のバロメータと変容してしまったようだ。
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