2015.08.02 Sunday

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

2009.12.26 Saturday

ラストサムライ 美しき誤解

 
ラストサムライは美しい誤解に満ちている。

トムクルーズ演じるオールグレン大尉が幕末の日本にやってきて、渡辺謙や真田広之らの演じるサムライたちと過ごす日々は、その映像美とともに美しい。

ただ、その映像も日本も、やはり実際のサムライの生活とは違うだろうことが直感的に理解できる。

自分も生きたことのない、その時代をもって、どこが事実に反しているのかと具体的には指摘できないとしても、これほど美しく優美で穏やかさだけが全てであって、汚さとおろかさと卑屈さが微塵も見られないのはありにくいと思うのだ。

人は、物語を創造するとき、今の時代に欠けているものを、自分たちの不徳は棚に上げて、物語の世界に反映するものであるから、ラストサムライの世界が現実離れした嘘っぽさをはらんでいるのはしかたないところであろう。

むしろ、その美しいサムライの世界の物語に、何か異議を唱えるとするならば、ラストサムライの世界には、日本人が生理的に嗅ぎ取るような日本固有の暗さとそれに付随するエロスが欠けているように思う。

それゆえに、ラストサムライには、日本人ならばすぐに気づくようなエロスの匂いがまるでなくて、どこまでも中国の桃源郷のような無色潔白さだけがしらじらしく残るのだと思う。

実のところ、真田広之も渡辺謙も、まるで中国の時代劇の武人を演じているように見えてくる。

ここまで書いてきて、外人には、日本の陰がわからないという結論で結んでしまってよいのかという懸念は少しばかり残る。ラストサムライの監督が見出したサムライの美学にこそ、日本人の眼で目垢のつきすぎたサムライ像の見直しを図るきっかけであるという前向きの視点もまだ有効だと思うのだ。

現代劇では、少しばかりバタ臭さの残る小雪さんの筋のとおった鼻も、ラストサムライの世界の中では、めだつことなく、サムライの妹という日本の女を違和感なく演じていると思った。

2009.11.01 Sunday

サイドウェイズ 現実肯定のやり方

 

サイドウェイズは、現実肯定の映画である。午後三時の日差しの中のナパバレーに身をゆだれば、誰もが、今そのままであるが認められる。あるがままの至福である。

ストーリーは、生瀬勝久演じる大介がアメリカで実業家の娘と結婚式を目前に控え、結婚式に出席するためやってきた小日向文世演じる道雄とナパバレーにでかける小旅行の間のささやかなラブストリーである。

道雄は、20年も前の留学生時代の教え子の鈴木京香演じる麻有子との再会に恋心が再燃する。

ナパバレーという観光地に、ロバートモンダミを代表とするワインナリーが舞台となって、いささか通俗なドラマの演出をもってして映画としての芸術性を揶揄するのは、あまりこの映画の正当なる鑑賞とは思えない。

カルフォルニアの低い湿度がそうさせるのかどうかわからないが、この映画には、主人公の過去の傷、感傷といったものを誇張するといったところがない。ドラマが感傷を癒すという日本的情緒のなさがうまく機能している。

ただ、豊饒の土地という名前を由来に持つナパバレーが、そこに来る者たちを受け入れて、ただあるがままを肯定するというロジックが、感傷の治癒の代わりに機能として存在している。

道雄は、シナリオライターをめざして、すでに中年の域に差し掛かり、離婚したばかりであったが、引きつつぎ、シナリオ学校の講師を続けていくという現実を良しとして肯定する。

大介は、1週間の旅行中に芽生えた菊地凛子演じるミナとのラブアフェアから気を取り直し、結婚を望んで、これまで築いた生活を進むことを肯定する。

生瀬勝久氏のあくの強いキャラクターは、日本のドラマでは、誰が見ても気がつくところであるが、アメリカ社会の中で、現地人とやりとりをしている限りはごくフツウの陽気なガイに見えてくるのが不思議だ。

http://www.youtube.com/watch?v=5yX73tXNBgY&feature=player_embedded

サイドウェイズとは人生の横道であるという。この映画では、中年の二人の1週間の旅行での日常を離れた日々が寄り道であることを、テーマとしているように思える。

それでも、果たして、そのとおりであるのかという論議は、少しは有効にも思うのだ。ナパのワイナリーで働く麻有子にしてみれば、離婚後アメリカで働いていたことが寄り道だったのかもしれないし、道雄にしてみれば、20年前に麻有子と出会って、今回、再会するまでが寄り道かもしてないのだ。

どちらが本道で、どちらが寄り道かは後からでないとわからないし、というよりは、どちらが本道だったかは、後になって自分の物語作りの中で、選択するというべきだろう。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村
2009.04.24 Friday

転落する人生

 「嫌われ松子の一生」をご紹介したい。

中谷美紀さん演じる「松子」の転落流転する、悲惨な人生に総天然色のミュージカル仕立ての演出を所々にしこんだコメディ映画である。

松子は教師になる。修学旅行の下見先で、校長からセクハラ。修学旅行では教え子をかばうばかりに窃盗事件犯。教師を引責辞任。作家志望の「劇団ひとり」との同棲生活で暴力を受ける日々。中州のソープナンバーワン。同棲中のヒモを殺害。逃走。自殺ぎわを救われた「荒川良々」と生活。つかの間、逮捕、服役。学校でかばった教え子がやくざになって、再会。逃走の日々。とここまで書いてきても、指が痛くなるだけで救いのない、ちょとうそっぽいストリーである。ところが中谷美紀さんの艶めかしさが、うそっぽい話と演出に奇妙なリアリティを与える。こんな実話もあったのかもしれないと思わせる。
この映画の過剰な演出とバランスをとっている中谷美紀さんの生々しい表情というのも、化粧品のコマーシャルで確立するまでは、世の中の認知されるところではないし、彼女が坂本龍一氏の秘蔵っ子の歌手であったことなどご存じない方も多いことと思う。

...

タイトルには、”嫌われ”松子、と書かれているし、キャッチコピーでは、”不器用な”性格のせい、という。転落する人生は、そういうことはあまり関係ないのではないかと思う。世の中で実際に起きた有名な事件をつなぎ合わせれば、このくらいの話にはなりそうな気がする。

実のところ、この作品は、かなり原作に忠実に作られているものの、原作以上に成功を収めているのは、その過剰なコメディミュージカル仕立てにあると思う。悲惨な人生が大爆笑のコメディのお芝居へと転換される中で、視聴者は、いつのまにか、松子は一生の間、ずっとお芝居を演じていたにすぎないような気にされてしまう。その結果として、松子の一生が救われるし、視聴者も救われる。近松の「虚実皮膜論」とはかくあるものだろうか。

村上春樹さんの小説の中の引用を信用するならば、古代ギリシアのエウリピデスの悲劇では、収拾のつかない混乱状態の最後には、必ず神様がやってきて交通整理をするのだという。

こんな神様の降臨のない現代だからこそ、中島監督の喜劇仕立てに、救いがあると思うのだ。人生ならぬ階段を転落して亡くなった鬼才中島らも氏がお笑いにこだわったのも少しわかるような気がした。

                2006 中島哲也 嫌われ松子の一生
Calendar
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>
PR
Selected Entries
Categories
Archives
Recent Comment
Links
Profile
Search this site.
Others
Mobile
qrcode
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM