2015.08.02 Sunday

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2009.11.22 Sunday

天空の城ラピュタ テクノロジーに郷愁を感じること

宮崎駿氏は、インタビューなどで自ら明言しているように、ミリタリーマニアであるらしい。初期のアニメ作品を中心にして、登場する機械や飛行機のディテールへのこだわりにその偏愛ぶりを確認することができる。

天上の城ラピュタは宮崎氏の嗜好が伸びやかに反映された作品の一つである。おそらくは、まだマジョリティうけや興行的な成功についてのプレッシャも少なかった時期であるせいもあると思う。

機械への愛情と自由な想像力の創作である飛行機や飛行船のデザインや機能を素直に味わうことが一般視聴者としても、このアニメ映画が正しい観賞方法と思うのだ。

映画冒頭のシータが乗る飛行客船は、ツェッペリン号を彷彿させ、20世紀初頭のおだやかでゆっくりした時代の空気を味わうことができる。

泥棒一団が空を飛び回るフラップターは、ハエの羽のような両翼を羽ばたかせて、浮遊して空中で停止できる、停止状態から後部のジェットエンジンで一気に加速して飛行する。

ラピュタへ向うシータたちの後を追跡する、敵軍の飛行戦艦は、そのずんぐりとした甲虫のような姿と搭載した兵器の機能も楽しい。

ディテールへの拘泥を際限なく繰り返すことは甘く楽しい記述作業であるが、キーボードを叩きながら、頭をよぎる思いは、なぜ、古きテクロジーにひかれるのだろうかということだ。

正直に告白してしまえば、僕には最新技術なるものの、しかけにはとても興味があるのだが、その技術が具現化されたハヤリの商品にはあまり関心がない。ある技術が新しかろうが古かろうが、その技術が機械に搭載される内的な必然性が感じられ、巨大な動物が心臓を鼓動させるような機械を美しいと思うからだ。

古きテクノロジーを愛でる理由の説明づけの1つには、それがテクロロジーであることは関係なく、何であっても過去に過ぎ去ったものだから、郷愁を感じるからだとする考えができる。

新幹線にせよ東京タワーでも、デビュー時は未来の象徴が、主役の時期をすぎ、そこに利用者が痕跡を刻まれたまま、日常から姿を消すことによってノスタルジーの対象となりうる。最新技術と比較すれば明らかな欠点や不便さは、すっかりきれいに隠微される。そうであれば、郷愁の対象は必ずしも技術である必要はないし、それが絶対的に優れたものである必要もない。時間さえたって、そこに十分に利用者の手垢がつき、表面のペンキや板が摩滅していれば十分なのであると。

このロジックは、そのまま骨董品への愛情への考察へと誘導されるものである。

もう1つの考えとして、その技術・造形分野ごとに黎明期のものは、最初のデザインのみが備える力があるのだと思うのだ。

プロットタイプには、荒削りながら、その機械の備えるべき機能と美しさが丸ごと含まれていて、その改良版で機能が洗練された後はあとはコストダウンと大衆化である。歯車を一つ省略することで、調整が必要で潜在的に故障リスクを孕んだ部品は一つなくなるのだが美しさが一つ損なわれる。調整箇所が一つなくなることで、熟練工への操作技量の要求も減るのだが、機械と人の関係性もより希薄になるのだ。

天空の城ラピュタの主人公パズーは、ときに採掘現場で半自動エレベータの歯車や蒸気機関のバルブを熟練工のように駆使し、ときにだましだまし動かす。また、飛行船の偵察凧ををハンググライダーのように操って風にのって天空を移動する。

人間と一体になって生き生きと動く機械は、手工業と近代テクノロジーの蜜月時代である。

過去をふりかえってベルエポックをよき時代と賛美して、黎明期のテクノロジーを愛でるのは、単なる郷愁を伴った作業ではなくて、そこに未来のテクノロジーを見出す想像力を見出す作業である余地はあると思う。

ラピュタ人が誰もいなくなって500年たったラピュタの城をロボットが、淡々とプログラム通りに、侵入者を排除すべく動きまわるのであるが、僕は、未来の世界で人類の叡智を伝承していくのがロボットであっても、それもいいのではないかと少し思った。

2009.10.10 Saturday

川上弘美さんが高野文子を読む

 

川上弘美さんは、朝日新聞の書評委員を務められていた。 わかりやすい言葉で、大好きな本の言わんとするところを 切り出してくれる優れた読み手である。

お気に入りの高野文子さんのマンガについては、なかなか その感動を文章にすることができずにいたが、川上弘美さんがうまく説明してくれていたのを発見した。

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「美しき町」の中には、「黄色い本」の中には、しあわせだった 時間がある。緊張した、切実な、だからこそしあわせだった時間。
。。。
なぜならば、しあわせというものは、しあわせである瞬間には、たぶんしあわせであるということを認識できない、という不思議なジレンマを かかえるものであるからだ。そのことを、わたしは高野文子の作品を読みながら、いつも強く思う。
「しあわせである瞬間には、しあわせを感じる主体は自分がしあわせであることを認識できない」ということ。
。。。
だから、「美しき町」のサナエさんの思う「たとえば三十年たったあとで 今の、こうしたことを思い出したりするのかしら」という言葉は、二重の意味でかなしい。サナエさんは夫と徹夜で印刷作業を行いながら、しあわせを感じていた。徹夜の印刷作業はつらい。徹夜で印刷することの原因となった同僚のいやがらせにも腹はたつ。けれどそれらの苦みがあるからこそ、サナエさんと夫が徹夜でした作業の中にあったしあわせは、二人にとって陰影のある深いものとなった。

しかし、それは終わってしまったしあわせである。物語の中の今、サナエさんと夫がその余韻にあるとしても、やはりそれは終わってしまったものだ。サナエさんの手でも夫の手でも、その場では握りしめることのできない、ただ後から形を与えることしかできないものとしての、しあわせ。
。。。
それら全部をひっくるめて、高野文子の作品をわたしたち読者を「あの瞬間」に連れていってくれる。ほんとうの生活の中では、めったにとらえることのできない「あの瞬間」。

文章でだって、ほとんどうまく書けたためしのない「あの瞬間」。きっかりと、切り取られた、かけがえのなかった、瞬間。たとえ自分が虫よりも小さなとるに足らない存在だったとしても、かけがえのないあの瞬間だったのだ。

(川上弘美、「高野文子 棒がいっぽん」 書評集「大好きな本」から)
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高野文子さんの「美しき町」のコマ割は、上質な映画のそれのように、完成度の極みにある。エンディングのサナエさん夫婦が団地から夜景を眺め、夜景から、二人の顔のアップへ、そして、窓の外側から小さな一室の二人を映し、アパート全体像をパンする流れは、とても素敵である。

どうそ、だまされたと思って「棒がいっぽん」を、お読みください。

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2009.09.14 Monday

高野文子 おんなのこの気持ち

 

高野文子さんは伝説の寡作マンガである。僕がその作品を知った20年以上前からも、作品の数は指折り数えるほどしか増えていないことに驚く。

作品の多くは、観念的・内省的なので、必ずしもマジョリティの読者を獲得しているとは思えないが、今、再読してみても、その感性が古びていないことに改めて驚く。マンガのコマわりも上質な映画のように多彩だ。

多彩な作風を2つに大別するとすれば、1つはハリウッド流60年代の上質なリメイクであり、もう1つは少女(女の子)のデリケートな気持ちの原型である。

三島由紀夫氏は、女性のけしからんところは、少女のうちは皆ネズミの子のような顔をしているくせに、自分の醜さに気づくことなく、美しく生きようとしていいくことにあるという。おまけに結婚してしまうと、もはや自分は性を昇華してしまったような達観のもと、卑近な日常に美をみいだしていくのだと書いていた。

いささか三島流の蔑視ともいえないことはないし、ネズミの子のような顔をしていたとしても、彼女たちは、幼少期からガラスの心を育んできていたことに、高野文子さんの作品を通して気づいてハッとさせられるのだった。

絶体安全カミソリを読めば、幼稚園児にしてすでに芽生える嫉妬、清涼飲料水の入ったコップの解ける氷のような不安、たたみの匂い。男性読者にして、5歳女児の目を通して世界を見ることになる。

作風としては別のスタイルである60年代ポップ調にしても、上述のようなデリケートな気持ちがそのまま、ドーナツショップのオールドファッションの甘さになったような思うのだ。


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2009.09.11 Friday

わたせせいぞう 賢者は輪郭を見る

 

たぶんに、かなりミーハーに属する話であるが、わたせせいぞう氏の作品集を開くのを目の至福としている。バブル経済の時期にモーニングに連載されていた「菜」は、浮世絵の色彩感覚を現代に継承したポップアートのマンガである。おそらく一度は、目にした方も少なくないと思う。

特に、四季それぞれの光の強さに応じて、時に、雨天、月光の中を彩り繊細に描写した日本の風景、歳時記は、すでに昨今のトレンドからはずれてしまっているが、いずれ再評価されるべきものだろう。

日本に生まれた浮世絵の合羽刷りは、20世紀前半のアールデコの時代には、フランスを中心にポショワールと呼ばれる、冊数限定の挿絵本として開花するに至った。わたせせいぞう氏の作品は、ポショワールを通して、浮世絵の文化が日本に再輸入されて大衆化した感も強い(荒俣宏:「不思議のアールデコ」)。

わたせせいぞう氏の描く画の官能は、光を意識した色彩のグラディエーションと、そのグラディエーションを縁取る輪郭にある。リーニュ・クレール様式と呼ばれるその技法は、「タンタン」の影響もみることができるが、その事実の有無に関わらず、僕には、目の悦びに浸るには、十分なものだった。

わたせせいぞう氏の故郷、小倉の隣の門司港駅は、かつて石炭を運んだ賑わいを彷彿させるレトロタウンで、そこの旧大阪商船ビルには、彼の美術館があって、たまたま訪ねたときには、美しいリトグラフをみることができた。

カラーのグラディエーションの妙を味わうのであれば、数多くの写真家の作品によって味わうことはできるのだが、写真のグラディエーションにはない実線の縁取りが、視覚を通じて大脳でドーパミンを放出させるのだと思う。

なぜ、輪郭の存在が、重要なのだろうか。結論から言ってしまえば、それは脳内で、自然界の光景も、輪郭を基準に処理されているからだろうと考える。



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2009.09.09 Wednesday

杉浦日向子さんの百日紅

 

夏は植木鉢の朝顔や、背丈を越える向日葵に目を奪われているうちに過ぎていくのだが、九月になると、それまで目だだたずに咲き続けてきたツルリとした木肌の頭上に咲く百日紅に気がつく。僕はこの花の存在につい最近まで気がつくことは無かったという点においても、子供とはちょっと縁のない花なのかもしれない。

そのドライな風合いは、砂漠の乾燥地帯の生まれかと思うほど、日本の花としては異質な趣である。

夏の熱気を身に引き受けて赤く咲く花には、どこかアンニュイなけだるさを感じる。

杉浦日向子さんはテレビ番組では江戸時代考証家として、そのフワリとした笑みを残すばかりだったが、そのデビューがマンガ家であったことは知る人も多くないかもしれない。

彼女のマンガ「百日紅」は、葛飾北斎とその娘お栄を主人公に、時にドキリとする幻想文学を垣間見せながら、江戸後期の浮世のアンニュイさを文芸作品のような濃度で描いている。

「散れば咲き 散れば咲きして 百日紅」(加賀千代女)

あの赤い花は、彼岸花が咲き誇るまでは、8月の濡れた砂のような熱気を吸い続けるだろう。ユリイカの特集に載せられた写真の中の杉浦向日子さんの笑みは百日紅のようだった。


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2009.09.08 Tuesday

あずみ 無垢は罪か?

 

「あずみ」は、無垢の罪深さを教えてくれる。男性向けマンガとしては異色の
美しい主人公あずみを描写する線が、無垢を象徴している。

天才剣士として育てられたあずみは、同じ剣士仲間との殺し合いとという試練から始まって、ひたすら使命を果たすために殺戮を淡々とこなしていく。あずみが勝つたびに、仲間や世話になった人たちが次々を巻き添えになって死んでいく。

あずみは、決して学ばない。使命を果たすことの過ちも学ばないし、殺戮を重ねていくことにも学習しない。あずみがどんどんと強くなっていくにつれて、登場する敵もより邪悪に、醜くなっていく。そのあずみの無垢と敵の醜さの落差ゆえに、あずみはいっそう美しくなっていくのだ。

本来ならば、殺戮で心はすさみ、あずみは汚れていくべきなのだが、汚れることを知らずに剣士の旅を続けることがあずみの罪深さなのだと思う。あずみが美しくなっていき、求愛する男性も次から次へと現れるにも関わらず、一人生きていくことも無垢の1つの現われである。

「あずみを」読んでいると、小山ゆう氏一流の淡々とした殺戮場面に、圧倒され、それが何度も繰り返されるとだんだん哀しくなってきて、読む気がなくなってくる。

その殺陣のシーンはアングラであれば丸尾末広を思い出させ見事である。実のところ、左右の腕は真っ二つ、首も飛ぶようなダイナミックな殺傷シーンはいささかリアルを越えているのだが、それが時代劇の殺陣と異なるのは、血が流れ、肉がえぐられるのを見て、自分が痛いと感じることにある。

そもそもチャンバラ劇も歌舞伎も、お芝居なので、殺されるシーンに生身の痛みを感じることはない。ところが、小山ゆう氏の優美ながら写実力ある線は、見るものに痛みの哀しさを与える。

あずみがもっとごくフツウの女の子から大人の女性になって、いつしか無垢でなくなれば、あんなに見事に残酷なシーンはなくなるだろうが、あずみが無垢である限り、マンガは終わることはできないと思うのだ。




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2009.08.17 Monday

トムとジェリーの運動方程式

  

子供のころ、トムとジェリーのアニメーションを見て育った。何曜日の何時だったのか、記憶にはない。おそらくは日本のどこでも、メイン番組のすきまで、放映されていたのではないかと思う。

今から思えば、どこが始まりでどこが終わりなのかも全く定かでない。猫のトムはネズミのジェリーをおっかける、ネズミのジェリーは猫のトムにいたずらをしかける。永遠の繰り返しだった。一番組が一日中、繰り返していたとしても、誰も気がつかないような、アニメ(カートゥーン)番組だった。

最近、子供が物理の勉強を始めた。初速度と、加速度が与えられたとき、XX秒後のボールの移動距離を求めよ、といった問題だ。ときに、電車と自動車の競争になり、電車は、加速度運動で自動車を追い越し、自動車は、次の駅で停止している電車を追い抜く。問題集なので、答えは、必ず一意的に定まる。

物理の問題集を読んでいて思い出したのは、トムとジェリーのアニメーションであの彼らが動きまわるドタバタシーンである。ジェリーの仕掛けた罠は、きちんと理屈どおりに動作して、岩石は、所定の時間後に、トムの頭の上に落下する。トムは、あたかも物体のように、つぶれ、飛び跳ね、転落する。

アニメを見て喜ぶ子供たちの痛快さというのは、自分の思い描くように確実に、トムをやっつけることのできる明晰さへの期待に基づいている。

子供を励ますのは、このように、3歳の子供のマインドのまま、能力だけは、スーパーマンの力を発揮できる強さである。その明晰さの根拠が物理法則であることも当然に知らないが、理路整然としたものへの生理的な嗜好がある。

機械仕掛けの動きと言う点では、あの有名なチャップリンの映画はどうだろうか。おそらくチャップリンの映画ともなれば、映画評論家の面々によって分析つくされており、ここで語ることも、誰かの二番煎じかもしれないが、話を進める。

モダンタイムズで、チャップリンの演じる主題の1つが機械文明における人間性の疎外というのは、異論はないと思う。それに加えて、あのユーモラスな彼の動きというのが、まるでぜんまいを巻いたからくり人形のようにぎこちなく動く姿というのも、これもまた、関節の複雑な動きをプログラムコーディングした、現代のロボットに近い。

つまりは、チャップリンの動きにおいても、物理法則を埋め込んだからくりと、その姿への滑稽さというものは、もう1つの主題となっていると思うのだ。機械文明によってヒトは歩く姿も食べる姿もぎこちなく、ドタバタとしてしまったのだと。

もっともチャップリンに限ったことではなく、あのバスターキートンの無声映画でのかけつ転びつの動きにも物理法則を見ることはできるし、初期のディズニーのアニメにも、運動法則に基づくドタバタを見ることはできる。

ここで、ゴーレムに遡る人工生命の系譜や非線形力学による未来の予測不能性の議論を展開してもよいのだが、やめておこう。

それでは、どんな教訓があるのかと問われたら、今の子供に必要なのは、理路整然として明るく励ます物語であり、大人に必要なのは機械仕掛けでぎこちない自分の動作を笑いとばし、自ら動きだす意志だと答えたい。


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2009.07.23 Thursday

背景のないマンガ

 
「天才バカボン」は、背景が空白のマンガである。登場人物のパパもママもバカボンも、まるで、書割も準備されていない舞台で演じるが如く、背景のない空間で、ドタバタ劇を繰り広げる。小学生の時に愛読していた「マンガ入門」では、マンガには劇画とギャグマンガがあって、前者は写実のデッサンを基調とするのに対して、後者は線をデフォルメしていくことを説明しており、よくわからないながらもギャグマンガには背景がいらないのだと納得していた。

今日、マンガの分類も単純に、ギャグマンガと劇画という分類だけでは、成り立たなくなっているのは、マンガ研究家でなくても認識するところであり、総じて言えば、コマワリと漫画的なテクニックは成熟し、背景を空白にするものはほとんど見られなくなった。

圧倒的な筆力をもって、「ミノタウロス」で吉川英治文学新人賞を受賞した佐藤亜紀さんは、小説の作法に一家言もっていて、早稲田大学での講義を「小説のストラテジー」で披露している。学者の論文のように、他人の成果に依拠することない独自の理論武装に圧倒される。新人賞の審査員たちはさぞかしビビッタことだろう。

同書において、佐藤亜紀さんは、小説は、ディエーゲーシスとミメーシスに分類できると表明する。前者は「表現することさえできない剥き出しの神性と人間が遭遇する空白の瞬間を記述する」とし、後者は、「手に触れることもできれば目にすることも音もできる対象が目の前を通り過ぎていく、現実の我々が経験するものに限りなく近い、無数の事物に満ちた世界」であるとする。同書は、それぞれの具体例として、旧約聖書と、古代ギリシヤのウェリギリウスを挙げているのだが、ちょっと難しいので、ここでは省略しておく。

小説の作法の話を展開するつもりではなく、マンガの表現の話である。

要は、佐藤亜紀さんが分類するところはマンガにもあてはまると思うのだ。「手に触れることもできれば目にすることも音もできる」マンガとは、背景がびっしりと描かれたマンガであろう。それが、飛鳥時代であっても、江戸下町であっても、近未来の王国であっても、記述のリアリティがマンガを支えている。

一方、「表現することさえできない剥き出しの神性と人間が遭遇する空白の瞬間を記述する」とは、旧約聖書の文章が、どこの場所の何時の時間のことなのか、常にあいまいであって、いわゆる人間のリアリティを超えている。さもありなん、これはある事実を描写しているのではなく、「問答無用の真実」として追体験されるべき事項だからである。

そうすると、「天才バカボン」が背景に欠けて、どこか、リアリティの欠如を認識させるものであるとするならば、それは、「天才バカボン」が問答無用の真実を描いているからだと言える。彼らの言動は、背景が示す時間や場所がどのようであるかということには、影響されず、彼らの心象が背景に投影されることもない。「天才バカボン」の登場人物は、そのまま、天上の神の国のできごと、であると言われても何ら違和感はないだろう。

真実は、時に誤解されがちである。背景が空白な、つまりは、事実描写の希薄な小説は、ときに、寓話であると批判され、宮本輝氏にそう批評された川上弘美さんは泣いたという(「大好きな本」)

その後、背景が空白なマンガとしては、数少ない読書量から思い出すと、高野文子さんの「絶対安全剃刀」と久保キリコさんの「シニカル・ヒステリー・アワー」挙げることができる。確かにいずれの登場人物も、神々のようだ。

「天才バカボン」の思想は、絶体的な現実肯定である、「これでいいのだ」にあると、本日記で頻出の四方田犬彦氏は指摘する(「指が月をさすとき、愚者は指を見る」)。荘子は世界にあるすべてを平等だから、これでいいのだと書き、ニーチェは来世に憧れたり、意味のない理想に心奪われず、今の現実をしっかり肯定することは、これでいいのだ、に行き当たると。

この考えを敷衍すれば、坂口安吾は「堕落論」で、先に戦争が終わったときには、倫理的には堕落しても、生きていけば、「これでいいのだ」、と現実の生を肯定したといえる。

奇しくも、「天才バカボン」の背景が空白なのは、この哲学を体現する主人公たちの真理の書であることが、その所以だろうか。やれやれ、ずいぶんと遠くまでたどり着いてしまった。
2009.07.20 Monday

星一徹の晩餐

 星一徹は、息子の飛遊馬に、一度だけ、レストランでご馳走をふるまったことがある。 普段は長屋で貧乏暮らしをしている飛遊馬にとって、その日の父の行動は、首をかしげるには十分なものだった。星一徹は、今日で最後だから特別だという。

その後、星一徹は飛遊馬の入学した青雲高校の野球部の臨時コーチとして現れ、容赦なく飛雄馬の弱点を暴くことになる。持ち前の剛速球であっても、ストライクゾーンにしか投げない、バックの守りを信用しない投球であると。紅白戦の敵側を率いて、飛雄馬のピッチングを完膚なきまでに叩きのめすのだった。それをきっかけに、梶原一騎描くところの親子の戦いが始まる。実は、星一徹の晩餐は、飛遊馬に対して、親子の訣別の儀式だった。少なくとも父一徹はそう思っていた。

どのような家庭環境で育った方であっても、自宅で食べたことのないものを食べたとときの体験は、鮮明に覚えているのではないだろうか。それは、友達や親戚宅でふるまわれた、母親が作ったことのない西洋風料理だったり、ピザ、カルボナーラ、あるいは、上京して食べたマクドナルド、吉野屋の牛丼かもしれない。

いずれにしても、未知のご馳走を食するとは、いごこちのよい生まれ故郷を離れる希望と悲嘆が相まって、味覚を思い出深いものにするのではないだろうか。

他人の飯を食うとは、独立して世間の世話になることを例えているし、所帯を持ち、奥さんに食事を用意してもらうとは、食生活と味覚を無防備に面従することだからである。

もっとも、星一徹のように、息子の独立のイニシエーションとして、レストランで大盤振る舞いするという話は、「巨人の星」が時代設定された昭和四十年代でもほかにはあまり、聞かない話ではある。

「巨人の星」のそのレストランのシーンでは、飛遊馬は、ディッシュに添えられたツルツルすべる丸い食材が、フォークでなかなかさばけない。そもそも父ちゃんの意図が理解できないので、いよいよ苛立ち、ボーイに箸をくれと、レストランに慣れていないことを周囲に露呈してしまう。星一徹はだまって口元に笑みを残して何も言わなかった。

レストランでの食事の経験のない自分にとっても、その食材が何だったのか、長いこと疑問に思っていた。もっとも、肉の丸焼きといえば、おそまつ君にでてくるあの、原始人のこん棒のようなリブが空想された時代である。

梶原一騎の原作には特に説明もなく、作画の川崎のぼるの想像で、あのツルツルしたサトイモのような食材を描き込んだまでであって、それ以上の具体的な料理も材料も、根拠はなかったのではないだろうか。いずれにしても、レストランで食事をとるとは、どうやら、大人のテーブルマナーを駆使しないと、成し遂げられない行為であることをおぼろげながら理解したのだった。

その後、「巨人の星」を読んでから何年かして、私も父にレストランに連れられ、飛遊馬と同じくレストランデビューを体験をする機会を得た。旅行なるものに、世間並に連れていってほしいとせがんだのだ。どこか観光地のレストランだったと記憶する。果たして、注文したディッシュの上には、「巨人の星」で見たようなツルツルした添え物はなかった。テーブルマナーに関して言えば、きちんと、フォークを落とした。それは、拾おうとする前に、ウェイターに交換された。

食材はなぞのまま、というか、そんなことはすっかり忘れて30年近くたった。

さて、米国でメインディッシュを注文すると、添え物でよく見かけるのは、アーティチョークである。実は、アザミの蕾である。外観はまだ青く巨大な松ぼっくりに近く、青臭く、歯ごたえは、ゆりねか竹の子に近い。米国のメインディッシュがマヒマヒでも、ラムでも、それはそれなりにおいしいのであるが、アーティチョークだけは、何度食べても、コリアンダーのようには、うまいと思い至ることはなかった。何しろ、あのトゲだらけのアザミなのだ。

今から思えば、巨人の星のあのレストランのシーンでステーキに添えられた食材は、料理大全か何かをひもとけば、アーティチョークであった可能性が高い。昭和四十年代の日本で入手容易であったかどうかは別としても、ステーキ料理の横に並べられる正統性を継承しているのだから。

星一徹の晩餐に、何らかのメッセージを読み取ろうとするならば、うまい話には、必ずまずいものがついてくるという長屋の落語的オチかもしれない。あるいは、箴言めいて言えば、希望と悲嘆は表裏一体であると、ゴージャスなステーキの横についてくるアーティチョークは語っている。

夏休みの家族サービスは、これで全て、と公言して、子供たちをバイキングスタイルのレストランに連れて行った。消える魔球の秘密から大リーグボール三号がどのようにして打たれたかをトウトウとして話すのを横目で、もうローストビーフは飽きたとばかりの表情は、現代が星一徹の教えを実行するには困難な時代だと暗に語っている。

2009.07.16 Thursday

諸星大二郎:換骨奪胎の実践

諸星大二郎のマンガを最初に読んだのは中学3年生のときだった。「暗黒神話」が、週刊少年ジャンプに連載されていた。一目、このマンガは筆に墨で書いているのではないかと思い、次に、「うしろの百太郎」を見るようにパラパラと頁をくり、しまいに、神話・民話を換骨奪胎した物語にあっという間に淫してしまったと記憶する。少年マンガでこんなことを描いて出版してよいのかと思った。

手塚治虫に代表される戦後の単純で明るいモダンな線画とは逆行するように、デッサン画のような暗いタッチとうねるような線は、呪術的で諸星好みの物語の主題に、幸福な合致をなしている。

さて、諸星大二郎のマンガを理解するキーワードは、フォルムを借りてきていることだと思う。つまり、諸星大二郎のオリジナリティは、曖昧模糊として不安にうごめいている無意識界をそのまま筆に何かが憑依したように、その中身を描写し、意味を与える才能にある。しかし、それが漫画なり、何らかの芸術表現として、アウトプットされるためには、何らかのフォルム=形式とめぐり合う必要があったのだと思う。やどかりのように。

まずフォルムとは、1つには物語の構造である。

初期のSFタッチのオリジナルの短編は、その才能を認められてはしても、すぐに世間と読者の評価を得ることもなかった。純文学を映画化したときにみられるような偉大なる失敗作と紙一重である。しかし、その後、孔子や日本の神話、グリム童話、さらには西遊記のような物語の形を借りることによって、初めて、その独特の線のタッチと不安・恐怖が、そのような不安を孕んだ存在でなければならない必然性、存在意義を得た。生き生きと怪しい魅力を放ち一定の読者を獲得するに至った。


まさに熟語の「換骨奪胎」を、字句どおり実践する如く、諸星大二郎は、神話、民話、説話の骨をとりだし、肉を奪い、その組み合わせによって、新たな世界を創造している。「暗黒神話」はその典型例である。

さらにフォルムとは魂をインストールする生身の肉体=入れ物である。

「暗黒神話」で古代王朝の姫君が不老不死の棺で二千年の眠りから覚めるとき、その肉体は、あっと間にドロドロに溶けてしまう。「生物都市」では、建物の中にヒトが溶け込んでしまい、「諸怪志異」では魔物の仕業でヒトが体を裏返されて、内臓が露わな姿とされてしまう。諸星大二郎の得意なモチーフは、無意識が生身の肉体をにインストールされて、生き生きと動き出すこと、そして、逆に、生身の人間も実はあっという間に腐敗してしまう不安定な肉塊であることを示している。

諸星大二郎の傑作、「西遊妖猿伝」は、西遊記を換骨奪胎した未完の傑作であるが、ここではもう1つのフォルムを得て、主人公が生き生きと活躍するシーンが見所である。主人公の孫悟空は、抑圧された民衆の怨念を身に引き受けた存在で、この漫画を味わう楽しみの1つは、戦乱と混乱の中、殺されていく民衆の怨念の固まりが閾値を越える場面である。

孫悟空の目は、カシャリと、別の人格(斎天大聖)へと変身し、おそろしくもダイナミックな暴力的装置として、敵も味方も見境もなく、破壊を尽くし、この世の中をリセットするかの如く暴れるのだった。ドラゴンボールでのスーパーパワーの発散は、これを範とするものか。

つまりは、民衆の怨念も孫悟空という人格のフォルムと、西遊記という物語のフォルムを得て、初めてのびやかに力を発揮し、それを描写した漫画は読む者の魂を奪ってしまうのだ。

邪悪なるものは、村上春樹さんの小説にも一貫するテーマである。私たちは、いつの時代にも斎天大聖に魂を奪われてしまう危険を孕んでいる。
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