2015.08.02 Sunday

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2012.12.11 Tuesday

葉山 仙元山

2010.06.01 Tuesday

写真論:印象派の見た光

 光には直射光と反射光がある。写真に写るのはどちらの光だろうか。


反射光だと主張するのがダイナミックレンジ圧縮の技法である。

Retinex理論によると、目に入る光は、照明からの直接光と被写体の反射率の積で定められ、真っ黒から真っ白までのダイナミックレンジがCCDセンサのダイナミックレンジよりも広い広ダイナミックレンジ画像であっても、この直接光を算出して、減少させ、そのダイナミックレンジを狭くすることができれば、うまくナローなCCDセンサのレンジに圧縮した画像が得られるとするアルゴリズムが生まれた。


ダイナミックレンジ圧縮(HDR)を駆使して作成されたネット上の作品は写真というよりハイパーリアリズムの漫画のようで、現実を越えたハイパーリアリズムの世界を現出している。

HDRを駆使した作品がハイパーリアリズムというかちょっと現実感に欠ける理由を、このアルゴリズムの原理に照らし合わせてみれば、それは撮影した生写真から直接光の成分をそっくり取り除いてしまった(=圧縮)からだと捕らえることができる。

一方、直接光も写真に利用できるとするのがノンコーティングのオールドレンズ愛好家たちの作風である。


そもそも、写真を撮影するときに、逆光で画面に入り込む直接光は、フレアとかゴーストと呼ばれ、本来、撮影では邪魔になるものである。戦後のレンズの歴史はこのフレア・ゴーストといったものを排除すべく、レンズのコーティングを工夫する改良の歴史であったと言える。コーティングの進歩によってレンズ群の間の反射も減って、群数の多いレンズ構成も可能になった側面が伺える。


ところが、戦前のコーティングなしのレンズは、フレアが紗を一枚かぶせたような独特の描写をする。それは細部がぼけてしまっている失敗の写真とは一線を画し、解像度のシャープな絵を描いた上で、さらにそれを絹に織り込んだような上質な質感をかもし出す。
また、時には、真っ暗な井戸に差し込む一筋の希望のように光の束が空から振る注ぐさまをそのまま描写する。


ネット上で作品を公開している戦前オールドレンズ愛好家の作品をみるときに写真とは直接光を表現として、積極的に持ちいるアプローチも有りだと確信する。

思い出してほしいのだが、目の前一面にまぶしい新緑を見渡すときに、新緑と目との間には、豊饒に降り注ぐ直接光が存在して、人はこれを無意識に見ているのではないか。

コーティングなしのレンズで撮影をするときに、現れる直接光には、印象派の画家達が風景の中に発見した光を見たような気になってくる。

2010.02.28 Sunday

空を撮影しないこと

 素敵な写真を撮るポイントはフレームの中に空をいれないことだと思う。

白々しく、凡庸なスペースが写真を占有し、なんというか、シャッターを
きった人の感動を損ねてしまうように思うのだ。

流れ行く雲の変幻や黒に近いまでの厳格な青空を、撮影対象と
選んだときを除いては、極力フレームから空をはずすのがよろしい
のではないかと、自分への反省をこめて思っている。

空を映さないようにするには、被写体に接近することが必要になる。
写真を撮りたいと思った場所で、どのポイントをとりたいか、わからない
と被写体に接近することはできない。

そうなると、基本は標準レンズで、足をつかって被写体との距離を
調整する。さらに被写体の立体感をだしたかったら、撮影者と被写体
の距離に加えて、被写体と背景物体との距離を計算する。

物理的に接近できない場合に限ってのみ、望遠レンズを使い、
物理的に離れられない場合に限って広角レンズを使う。


前に、青空には幸福感と引き換えに絶対的な哀しさを備えていると書いたこと
があるが、曇天には凡庸なる不幸を顕示しているということなのだろうか。

写真を撮っているうちは、そんなことまでは気がつかなかったのだが、
それが写真を上達させる認識なのか、僕はわからない。
2010.02.24 Wednesday

モノクロの効用

 カラー再現が可能な時代にモノクロで写真を撮ることには如何なる意味があるだろうか。

義父が京セラの前の時期のコンタックスで撮って、自家現像したモノクロ写真は黒い地の中に白い被写体が生々しく浮かび上がっていたのが強く印象に残っている。

写真撮影の修行として考えるには、モノクロで撮影するということは、色という表現の要素がないので、自ずから、光と影で写真を仕上げることに意識が集中し、光の妙を習得できるように思える。

そして自分としては、無秩序にかつ猥雑に色と光が氾濫する街の風景を撮影するときには、色の情報をぬきとると、猥雑な街並みをエネルギーをうまく残したまま、ある種の優雅さをもって作品が仕上がるような気がする。

それは裏返しに捕らえるならば、東アジアの街の固有の混沌さがよくも悪くも、身について離れないのかもしれない。
2010.02.14 Sunday

歌舞伎は時間の長短を表現する

 時間の進む速さが速くなったり遅くなったりすることを発見したのは歌舞伎かもしれない。

アインシュタインは光の速度のオーダーで移動するロケットの中の人の時間が速くなることを
発見したと聞く。その大発見の前に、歌舞伎は、ヒトの感じる時間の速さが変化することに気がついていたと思う。

歌舞伎座で歌舞伎を久しぶりに見て気がついたのは、このお芝居は、リズムの長短の変化にポイントがあることだ。シテの打楽器に呼応して、こぎみよくお芝居は時間が早く進むことを表現し、見得の瞬間時間は止まる。それは役者の感じる時間の内面表現である。

日本文化には、歌舞伎に限らず、間を大切にしているのは、顕著であって、それはときに、空間の間であり、時間の間である。最近、自作のビデオ作品の投稿を多く目にするようになって、スローモーション撮影した映像が新鮮に見えた。米国発の作品も歌舞伎の匂いがした。




2010.02.02 Tuesday

日差しと写真の作風の関係を考える

風土が写真撮影に与えるが影響がある。


アメリカで暮らし始めたときは、日本から愛用のライカを持参した。
ズミクロン50mmF2.0は、絞りを開放ぎみにしたときに、ライカ特有の
背景のぼけに浮かび上がる立体感ある被写体の仕上がりが持ち味
である。

ところが、カリフォルニアの日差しは、おそろく良くて朝早くからまぶしい
過ぎる光量なので、ライカのシャッタースピード(1/250)の限界では
開放では露出オーバーなのである。


必然的に、写真はどれでも絞るので、レンズの味というよりは、画面全体
に被写界深度の深い、均一なくっきりした仕上がりになってしまう。

それはそれで、素晴らしい写真が撮れるのであって、著名なアンセル
アダムスは、サンフランシスコの近郊(といっても200キロ以上遠くなのであるが)
のヨセミテ国立公園の岩肌をモノクロトーンに美しくマッピングしているのであるが、
アマチュア写真家であっても、恵まれた被写体の山々と天候の恵みで、
2キロぐらい先の山肌が顕微鏡で拡大されたごとくの写真を作成することが
できるのだ。

しばらくは、木陰で開放気味の撮影なども試みていたが、しばらくすると
贅沢な日光を満喫したくっきり鮮やかな青空を背景にした写真になじんで
しまって、日本式のぼけと儚さをあふれた作風は忘れてしまった。
写真撮影の中でも個性がはっきされる、薄暗い日差しや室内の中での、
儚いグラディエーションをよしとする感性というのも、実のところ、風土が
形成してきたものであったことを再認識するできごとだった。

日本の美意識は、日本に戻れば、やっぱり素敵だと思いながらも、
どこまでも鮮明でクリアな世界のアマチュア写真家の作品の中に見るとき、
僕は、またあのあのカリフォルニアの青空のことを思いださずには
いられない。


2010.01.17 Sunday

竜馬伝の映像美学論

 竜馬伝(NHK大河ドラマ)は明るさに満ち溢れている。

といっても、ストーリーのことではなくて映像技術のことである。

明らかにセットではない実際の外の風景が多用されている。写真撮影と同じで、太陽光の逆光では、ハレーションがおこり、曇り空はときに真っ白に飽和している。順光でも、顔に陰影の陰がはいり、必ずしも安定して見やすいものではない。

それでも、レンズを開放ぎみで撮影したときの被写界深度の浅い画像特有のボケ味が被写体の背景に優雅で上品な映像美を与えて、室内のセット作りものの大河ドラマ固有の映像とは一線を画していると思う。

カメラワークのことはよくわからないのだが、手持ちカメラを多用した映画風のしあがりも堪能できる。

実のところネットの情報によると、やはり最新の1秒30コマのカメラを採用しているのだという。インターレースでは間引き画像が30fpsであるから、撮影時はその倍の情報があるといえる。

この明るさの意味は何かと考えてみると、やはりそれはドラマの意図である竜馬が近代化の中で
活躍した前向きの明るさというものを示しているだろうし、旧態依然とした大河ドラマの文法から変わろうとする試みであろうと、評価したい。

もちろん、竜馬という人物と、若き人材が世の中を変えていったという時代の明るさが映像をより一層明るくしているのは間違いない。

僕らはいつの間にか、暗いところを歩くのが美徳のように思ってしまってはいないだろうか。

光あるうち、光の中を歩め(トルストイ)
2009.12.08 Tuesday

片岡義男 清潔な東京写真

 

片岡義男さんの写真は清潔である。少し懐かしさの残る東京の風景も情緒に流されることなく、鮮明であり、かつ、現実から破綻しないほのかな色合いを伴う。

角川映画のメディアコンプレックスで時代の寵児となった片岡さんの「スローなブギにしてくれ」をこのあいだ読んでみたのだが、その読者層がティーンエージャーであったことも影響してか、表現とストーリーの拙さが少し物足りなかった。

その後、小説を書きながらも、写真家としてもさりげなく強かに活動を続けてこられたようで、その作品を見ると、しっかり大人の鑑賞に堪えうる上品で東京の風景描写で、読者を楽しませてくれるのだった。


http://dc.watch.impress.co.jp/docs/culture/exib/20090529_170385.html

路地裏の汚さに過剰な思い入れをいれるでなく、失われていく風景をウェットに描写するでもない。足元の影の美しさをしっかりととらえながら、20世紀初頭のころにフランスの雑誌を見るようなおしゃれ心もある。

情緒に流されない乾いた文体というものは、写真撮影においても損なわれないということを、思わず一人確認して感心するのだった。
2009.12.07 Monday

フェルメールにビリーホリディを見ることについて

 久しぶりに搭乗したANAの機内誌でフェルメールの記事を読んだ。生物と無生物の間について、かなりの文章力をもって読ませる新書がベストセラーとなった福岡伸一氏が、パリの美術館にフェルメールの絵を見に行くという短い記事だった。

紹介された絵はフェルメールの若いときと、晩年に描かれた、いずれも小型のチェンバロを前に貴婦人が室内からこちらを向いているというモチーフの1対の油絵だった。そこには、あのフェルメール一流の窓の外からの光が室内の貴婦人の面立ちとドレスを諧調表現たっぷりのモノクローム写真のような品のある表現と明るい色彩で描いた絶品だった。

貴婦人の面立ちの美しさは、現代のCGを駆使して描いたヒロインに似た、ある種の非現実的な映像美に近く、ときどきルネサンスの絵画には、500年以上前にもか変わらずCGと同じ感性があったのかと思うのだが、その1つの作品とうけとめたい。

とにかく、ドレスの青が光を少し吸収して、ワインのような芳香を放つが如くだった。

教科書で目にすることのできるフェルメールの有名な一作も、窓から差し込む光が1つの特徴となっており、かつて、浅田彰氏も写真術との対比で、フェルメールを論じたことがあった(「フェルメスの音楽」)。いずれにしても、この光の意味はいったい何なのだろうか。

それは、光の入らない閉じた室内の暗室で完成していた中世の宗教画に、窓の外から光を照らすということの強い意志ではないか。貴婦人の表情は、いまだ、その後の近代の絵画が表現するような、生身の肉体とそれに伴う醜さ、汚さといったものとはまだ無縁の世界ではあるが、非現実の世界の主人公が今、人間界へ現れたようなリアリティがそこにある。

確かに、そのリアリティというのは、貴婦人の面立ちと表情と見ると、よくわかるのだ。この絵が美しさと同時に、少し怖くなるような印象の残すのは、まるで黄泉の世界から亡霊が現れたような生々しさをそこに感じるからなのだと思う。その意味では幻想文学にも似ている。

その生々しさには、僕は、大好きなビリーホリデイをも感じたのだ。SPレコードのようなローテクであっても、ビリーホリデイの声は50年前の彼女が今、そこに現れたような生々しさを再現する。

ビリーホリディの映像はモノクロ映像と写真でしか見ることはできないのだが、きっとフェルメールの貴婦人のような美しいブルーのステージドレスを身にまとっていたのではないかと思う。
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