2015.08.02 Sunday

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

2010.06.14 Monday

沢木耕太郎:「深夜特急ノート」 車窓のサイエンス

いつまでも、永遠に読み続けていたい本の1冊は沢木耕太郎氏の「深夜特急」である。

バックパッカーの伝説のバイブル。ユーラシア大陸を路線バスを乗りついで横断。
猿岩石のヒッチハイク番組はディレクターが本屋でこの本を読んでマネてみたという。

単行本では続編を含めて3冊だったが、塩野七生さんの著作のように10巻ぐらいはあってほしいのだが、読み終わってしまうと、もっと読みたくて、それが自分で旅行をするか、あるいは自分で旅行の体験を文章にしてしまいたい衝動に駆られる。
「旅する力 深夜特急ノート」はそんな読者を想定して、ベストセラーの刊行後に断片的に書き連ねたと思われる、いわば、「Making of Midnight Express」といえる。

沢木氏が有名になる前に所属していたTBS系の「調査情報」編集部でのエピソードは読者も興味深いところか。感想を総じていえば、ちょっと無理して裏話を披露している感もある。

往年のジャズ名盤をCDで販売するときには、アナザートラック(ボーナストラック)としてLPにははいっていない、いわばプレスは見送った演奏がはいることがある。マニア層にはたまらないサービスであるとは思うのだが、必ずしも、最高のできではなかったりして、これは日の目を浴びない方がよかったのではないかと思うこともある。沢木氏の創作ノートに関していえば、微妙なところかもしれない。

それでも、原石の中から輝く珠を見つけ出したときには、とても得をしたような気分になる。自分が似たようなことを考えていたときにはなお更である。

-----
ひとりバスに乗り、前から外の風景を見ていると、さまざまな思いが脈絡もなく浮かんでは消えていく。そのひとつの思いに深く入っていくと、やがて外の風景が鏡になり、自分自身を眺めているような気分になってくる。バスの窓だけではない。...そのとき、それが自身を眺める窓、自身を眺める「旅の窓」になっているのだ。...フレドリック・ブラウンが『シカゴ・ブルース』というミステリー小説の中でこんなことを書いている。
「おれがいおうとしたのはそれだよ、坊や。窓の外を見たり、なにかほかのものを見るとき、自身がなにかを見てるかわかるかい? 自分自身を見てるんだ。ものごとが、美しいとか、ロマンチックだとか、印象的とかに見えるのは、自分自身とかに見えるのは、自分自身の中に、美しさやロマンスや、感激があるときにかぎるのだ。目で見ているのは、じつは自分の頭の中を見ているのだ」
沢木耕太郎氏の「旅する力 深夜特急ノート」
-------

近年の脳科学ブームの中で、脳の働き、感情・思考といった活動と生理学の領分との関係が少しづつ明確になってきているのだが、旅をすること、車窓を眺めることは、1つの脳科学、自分で自分が考えるプロセスをメタレベルで観察するサイエンスなのではないかと思う。

2010.06.12 Saturday

湊かなえ 「告白」 2

 今度学校を辞めることにしたと女教師が最後のホームルームで語り始める。

給食の牛乳には発育に大切な栄養があってと、ちょっとレトロな学校ネタなのかと思って読み始めるのだが、辞める理由は自分の娘がこの間のプールで起きた事件で殺されたからであって、その犯人はこの中にいる、今の復讐を終えたところだというオチで第一章は終わる。ちょっとグロテスクな設定ではあるのだが、スピード感あふれる描写が凡庸さから逃れている。

これで小説がおしまいならば、この本は短編集ではないか、と目次を確かめた。第二章は、生徒からの告白だった。ほぼ同じストーリーが生徒の視点から供述される。この繰り返しで、第三章以降、章ごとに少しづつ新しい事実が加わって、複数の鏡で被写体が照らし出されたように修正されていく。ベールが剥がれていくエロスが少しある。

教室をテーマにした漫画の「二十世紀少年」を思い出させるが、「二十世紀少年は、よくも悪くも謎の先送りで読者を最後まで混乱させていた。その点、「告白」は多少状況が複雑でも、章ごとのほぼ同じストーリーが繰り返されるので、わかりやすいし、すっきりしている。

この小説などのように、映画化されるのだろうか。そのままであれば章ごとの語り手のモノローグであるの単調になりそうだし、語りの途中から回想シーンの繰り返しになることが想像できる。

引きこもりから、子供への偏愛と、子供が起こした異常な犯罪の背景を親子関係から小説らしく丁寧に描写しているが、いささか通説の域を超えない感もある。逆に考えると比較にだした二十世紀少年のほうは犯人の子供たちへの親の影響というものをほとんど描いていなかったのはなぜだったろうかと思うのだった。

告白を語る松たか子さんの表現力が楽しみである。
2010.06.08 Tuesday

新参者:加賀刑事が犯人をなかなか見つけようとしないわけ

 テレビドラマの「新参者」が結構おもしろい。同名の原作は東野圭吾の加賀恭一郎シリーズのミステリーで、ベストセラーでもある。

阿部寛演ずる主人公の加賀刑事が、殺人事件の犯人を捜して、聞き込みに廻る。毎回犯人ではないかと勘ぐられる登場人物は、それぞれの暮らしの中で周囲の人たちをを気遣い、かばって秘密をもっている。登場人物が犯人ではないかという疑いが晴れて人形町界隈の下町の人情が毎回1つづつあらわになっていくところが、ミステリーに独特のペーソスを添えて、読者・視聴者の支持を得ているのだと思う。

加賀刑事が新参者であるというのは、この街でいつまでたっても名物の「たいやき」を買うことはできないというエピソードが象徴的ではあるの。加賀刑事がこの街の部外者だからこそ、少し古めかしい人情の綾を遠慮なく、露わにしていくのだと思う。それが本人の本意でなくても、刑事という職務でもあるから。

ミステリーは、外部との交流がなくクロースドな社会に、外部からやってきた探偵が、入り込んでいってそこでおきた事件を解決するというプロットを1つの類型としている。ずいぶんと奇抜な対比に聞こえるのかもしれないが、70年代の邦画では随分と話題になった横溝正史の怪奇シリーズ、たとえば八つ墓村などは、その例である。

石坂浩二演ずる金田一耕助が訪ねる村で、次から次へと猟奇的な殺人事件がスペクタルのように展開する。たいていの場合、犯人は一番大人しい女性で、村と血脈の抑圧の人間関係の中で一番の被害者であって、その復讐劇がまるで、外部の人間に見てもらうことが殺人の意図であるかのように、事件が繰り広げられるのだ。要はなぜ探偵のいくところ事件がおきるかといえば、探偵に見てもらいたいからこそ事件がおきるのだと結論づけることもできる。

それでは、加賀恭一郎の場合にも、事件は加賀に見届けてもらいたくて起きるのか。その視点で説明するならば、事件というよりは、毎回起きる登場人物とその周辺の人々との交流と誤解の綾を、繊細な観察眼で解き解いてもらいたくてドラマは生まれているのだと思う。

加賀が観察し指摘しなければそこにいる登場人物たちも気づくことのなかった、いわゆるそれぞれの「人情」について、登場人物等がそれぞれに感慨深げに考え直す面立ちが印象的な毎回のドラマのエンディングは、加賀刑事の治療行為の効果を示しているのではないか。

いささか、誇張をこめて結論づけるならば、この小説は下町の人情を横糸にしたミステリーではないし、そもそも人情などというものは、下町であったにしても、デリケートな観察眼なしには互いに気がつくこともないのではないか。

と考えるまでに至った点で、単なるノスタルジーにとどまらないドラマの可能性を感じる

2010.06.06 Sunday

湊かなえ 「告白」

 
文庫本84ページから、
ーーーー
ほとんどの人たちは、他人から賞賛されたいという願望を少なからず持っているのではないでしょうか。しかし、良いことや、立派なことをするのは大変です。では、一番簡単な方法は何か。悪いことをした人をを責めればいいのです。それでも,一番最初に糾弾する人、糾弾の先頭に立つ人は相当な勇気が必要だと思います。立ち上がるのは自分だけかもしれないからです。でも糾弾した誰かに追従することはとても簡単です。自分の理由など必要もなく、自分も自分も、と言っていればいいのですから。
 
湊かなえ「告白」
ーーーーーー
2009.12.25 Friday

1Q84の秘密  青豆さんとマハーバーラタ

1Q84を再読して3回目となると、読み方もディテールへのこだわりとなってくる。

主人公の一人、青豆さん(女性)は、友人の死をきっかけに頚動脈(たぶん)一刺しの暗殺者の途に進む。そして、宗教団体「さきがけ」の教祖を、優秀なるマッサージ師として会うことに成功し、いよいよ、暗殺を実行としようとする。

すると、男は、最後の仕上げを待っていたという。彼女が何をしようとして、近づいてきたのかは知っていたし、ここで殺されることで解放されるのだと。

教団にとらわれた身の幼い女性教徒たちをも、蹂躙していたと聞いていた彼女は、混乱した状態で、幼馴染の天吾との因果関係をも明かされ、最後は、使命をまっとうして、殺人を遂行する。

暗殺者がその宿敵を殺そうとするとき、その宿敵が実はそれを待っていたというお話は、インドの叙事詩「マーハバーラタ」に読むことができる。

生涯を童貞としてすごすことと引き換えに不死の身体を得た剣の天才のピューシュマという王子がいた。彼は王位を継承する弟のため、他国へでかけ、剣比べで二人の姉妹を獲得して、帰国した。姉のアムバー姫は、国に婚約者がいることを理由に弟との結婚を拒否し、ピューシュマは姫を国に帰したが、ピューシュマに剣で敗れていた婚約者は姫をひきとろうとはしなかった。

行き先を失ったアムバー姫は、いつしか恋するようになっていたピューシュマに結婚してほしいと懇願するのだが、ピューシュマは神との約束で不死を得たことを理由に断る。

愛から一転憎悪へと変わったアムバー姫は、いつかお前よりも強い武人をさがしだし復讐をしたやるといいはなって去っていった。

幾星霜を経て、敵国にシカンディンという剣に長けた若者が現れる。そして、戦場ですでに老いたピューシュマと戦うに至る。実は、シカンディンは、アムバー姫が自ら命を絶ち冥府にくだって剣の達人の美少年としてよみがえったのだった。シカンディンは前世のことは覚えていない。しかし、ピューシュマはシカンディンを見て、すべてを理解した。

わたしは、お前を一生の間、待っていたのだ。おまえは私の死だと。

不死であることは栄光である以上に苦痛である。シカンディンは、ピューシュマを倒してほどこされた。ピューシュマも待ち望んでいた死の到来を悦びを持って受け入れた。

似たような話は、ほかにも世界の説話にはあるかもしれないし、村上春樹氏が、マハーバーラタを読んでいたのかどうかはわからない。
2009.12.12 Saturday

吉田健一 25メートル潜水の文体

 


吉田健一氏の文章は長い。息を止めて25メートルのプールを一気に潜水して泳ぎきるような長さを感じる。緊張感を維持したまま少し時代かかったゆったりとした時間の長さを味わうような文体なのだ。

文体をまねてしまえば、典型的な、読みにくい悪文になってしまいそうだし、その結論を先送りする韜晦趣味は、初心者には不向きと感じる。

吉田健一氏は、イギリス留学の経験をもつ英文学学者であるのだが、その文体は、英語の文章をそのまま翻訳したような形式に基づいた長文であることに気がつく。

その翻訳文体をベースした文章であるからこそ、日本の古文、浄瑠璃、七五調とは一線を画した、骨太の論旨展開ができると思うのだ。

韜晦趣味というのは、何ごとも、単純明快シンプルが好まれる現代にあっては、無用の長物の扱いの感が強いのであるが、そもそも哲学的思考の意義とは
その結論ではなくて、考えるプロセスであることを、その25メートル潜水に似た文体は語っている。
2009.11.23 Monday

保坂和志 ストーリーと感傷と比喩と文体のない小説

 保坂和志氏の小説は、一言で言えば、人の日常生活から、紋切り型のドラマやストーリーといったものをそっくり取り除いたあとの、あいまいさ、ゆるやかさといったものを記述する文学であると思う。

保坂氏は、小説家ながら、小説論に対する関心が高く、自ら小説はどうあるべきか、いくつか書物を上梓している(書きあぐねている人のための小説入門、小説の自由) その小説論の記載についても、本人の小説とおなじような、ある種のわかりにくさをはらんでいて、明晰ではなういのだが、主張していることは次のような主旨と思われる。

すなわち、文学活動たる小説を書くということは、文体や、典型的な文学的比喩を真似して、駆使して古典的な小説風の文学調を極めることではなく、何か感傷を甘く語るものでもなく、どんどん先に読み進みたくあるストーリーを提供するものでもない。

むしろ、現実を、言葉で合理的に説明しようとしても零れ落ちる何かをすくいとろうとする作業であると。あくまでも個人的な理解にすぎないのだが、これはそのまま異化作業であるし、詩人が詩の言葉をつむぎ取る作業でないかと思う。

このような主義のもと作られる小説には、読者がフツウに期待するドラマも感傷も教訓もなくて、たとえばプレーンソングには、主人公とその周囲の友人との会話が淡々と述べられているだけである。

そこには言葉にできなかった言葉の背景の深い意味など、暗示も明示もしていないし、ただ確かに、日常の会話は、お芝居のそれと違って、あちらこちらへ話は飛ぶし、意味も目的もなくたらだらと続くものであることは、気が付けばそのとおりだと思う。あえて言えば、その芸術性を意識的に排除した文章はちょっと稚拙な感じさえしてしまう

こうした、いわば、コーヒー豆からストーリーというコーヒーを抽出した後の意味のなさそうな滓のほうに何か、小説としての可能性があるのでないかという戦略的な記述に基づいた作品だと言えそうだ。

誰もが保坂氏の作品を読んで、楽しいと思うかは、疑問の余地が残る。これは、ある意味現代美術に近いものがあるからだ。少し感性を研ぎ澄ますことであんがい楽しく鑑賞できる現代美術作品もあることは間違いないのだが、やっぱり古典的なスタイルでちゃんとストーリーも文体も楽しめる小説形式にだって、まだ書き尽くされていない小説はあると思うのだ。




2009.11.21 Saturday

鹿島茂 社長のためのマキアヴェリ入門

 子供につきあって、山川の世界史を読んでいたら、マキュアヴェリのくだりが目にはいった。

”フィレンツェのマキュアヴェリは君主論を書いて、政治を宗教・道徳から切り離す近代的な政治感を提示した。”

マキアヴェリからもう500年もたつのだが、世間では政治家から道徳を切り離して評価することを理解できないでいると思う。君主になる経験をする機会が何時までたってもないからかもしれない。

本屋に行くと、偶然、鹿島茂氏の”社長のためのマキアヴェリ入門”(中公文庫)を見つけた。鹿島氏の本はいつも文芸コーナーしかチェックしていなかったので、気がつかなかったのだが、一般ビジネス雑誌への寄稿も多いようで、月刊鹿島と呼ばれるゆえんをようやく理解した。


同書は、君主論を昨今の経済環境化での社長の経営論に読み替えている。
サラリーマン歴史学は、歴史に失礼だと思うので、敬遠しがちなのであるが、君主を社長によみかえた事で意図とは逆に、君主の気持ちもちょっとわかった気がした。

”君主(社長)は、戦いに勝ち、ひたすら国(会社)を維持してほしい。そうすれば、彼のとった手段は、必ずやりっぱと評価され、誰からもほめそやされる”

どんなに人望があって自愛にあふれた社長であっても、嫌われている社長であっても、結果が悪ければ悪い社長で、結果がよければよい社長であるとする。

”民衆というものは頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない。というのは、人は ささいな侮蔑に仕返ししようとするが、大いなる侮蔑にたいしては報復しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように やらなければならない”

ちょっとドキっとするが、社員とはそういう反応をしているのかもしれない。

”恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいかである。だれしもが、両方をかね備えているのが望ましいと答えよう。だが、二つをあわせもつのは、いたってむずかしい。そこで、どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。というのは、一般に人間についてこういえるからである。そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと”


塩野七生を読んでもピンとこなかったけれど、少しわかった気がした。もっとも世間はいまだに、政治家には道徳を要求している気がする。
ただし、賛成かと言われると判断はつけがたい。
2009.11.09 Monday

トーマス・ピンチョンと特許法

 

トーマス・ピンチョンは、20世紀を代表する米国の作家である。謎と比喩に満ちた作風で知られる。彼の「競売ナンバー49の叫び」では、奇しくも、特許制度についての言及が見られる。

株主に抗し、会社の就業規則を改定しようとする説明のくだりは、次のような会話。

−−
「座りなよ、あんた、ほんとうに会社の方針を動かしたり、くずといっしょに捨てられちまわないような提案を出したりできるの?」
「ええ」とエディパは嘘をついた。反応を見たかったのだ。
「やってみてくれないかな」とコーテックスは言ったー「特許に関する条項を廃止させるように。こいつが奥さん、頼みたいことなんだ」
「特許ねえ」とエディパ。コーテックスの説明によれば、技術者はヨーロダイン社と雇用契約を結ぶに当り、同時に、どんな発明をしてもその特許権は会社に譲渡するという署名をしているのだという。
「これではほんとうに独創的な技術者を殺してしまうんだよ」
。。。
「個人が発見するなんで、もうなくなっていることだと思ってたわ」とエディパは言った。
−−−
日本の特許法では、会社等が従業者等から譲り受けることができるとする発明は、職務発明に限られている。特に、発明の対価についての訴訟が続いてから、対価についての規定が強化された。米国の特許法の条文は確認していないのだが、自由契約の風潮が強い米国で、職務発明について何ら制約的な規定があるとは考えにくい。

ピンチョンのこの小説は1966年であるが、このときすでに、特許制度の弊害があること、また、もはや個人一人では発明が困難であることを示唆しているのが新鮮である。




にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村
2009.10.21 Wednesday

椅子がこわい

 


著者は想像を絶する腰痛に苦しんだ。ベッドで目覚めた直後からの激痛、柔らかい椅子にはとうてい座れない痛み、そこで立っていようとするのだが、何かに凭れないといられない不安、そして何よりも眠りをさますほどの痛み。
 こうなるとレストランにも劇場にも行けないし、むろん電車にも飛行機にも乗れないから、旅行はできない。むろん病院に行った。それもあらゆる治療にかかった。整形外科、鍼灸医、産婦人科、温泉療法。さらに手かざし療法から祈祷をうけるまで、まあ、よくぞここまで試みたとおもえるほどに、著者はありとあらゆる手を打っている。ところが、何をやってもなかなか治らない。
 かくして著者は発病後2年ほどして、ほとんど仕事ができなくなり、自分の病が不治のものとおもうようになったばかりか、このままではこの得体の知れぬ病気で死ぬか、自殺するか、余病を併発して死ぬか以外はないと思いはじめる。ようするに死にとりつかれてしまったのだ。

こうして著者は熱海で絶食療法をうけ、平木医師に最後通告をされる。「あなたの大部分を占めていた夏樹静子の存在に病気の大もとの原因があると思います」。
 著者は答える、「元気になれるなら夏樹を捨ててもいいくらいです」。が、平木医師は即座に言ってのけたのである、「元気になれるなら、といった取引はありえない。無条件で夏樹をどうするか、自分なりの結論が出たら私に話して下さい」。
 そんな話をされてもやはり激痛は去らない日々が続くのだが、著者は自分では結論が出せないでいる。平木医師はさらに著者に迫った。「では私の結論を言います。夏樹静子を捨てなさい。葬式を出しなさい」。理由はこうである。あなたの腰痛は“夏樹静子”という存在にまつわる潜在意識が勝手につくりだした“幻の病気”にほかならない!
...
 この宣告こそ、作家であって知識人でもある著者にはまったく容認できないものだった。しかも、著者はそんな推測がいちばんバカバカしいものだと何度もくりかえして、この3年間にわたって拒否しつづけたものだった。
 しかし平木医師はまったく頑として譲らない。結局、根負けしたようにして著者は絶食をつづけ、夏樹静子との決別を決意する。
 その直後である。激痛が去る。嘘のように消えたのである。そして二度と腰痛がおこらなくなったのである。
 このことはいまなお著者自身が信じられないことであるという。それはそうだろう、あれほどの物理的な痛みがただの自分がつくりだした心の問題であったということなど、とうてい信じられはしまい。
 しかし、著者は心身症にすぎなかったのだった。本書はそのことを劇的に、しかも説得力をもって告げている。森田療法が勝ったのである。
(松岡正剛の千夜千冊 夏樹静子『椅子がこわい』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0146.html)
--------

心身症は、多岐にわたる症状の神経症の総称
であるが、どこも悪くないのに症状が現れる
病気を身体性表現障害と呼ぶ。

つまりは、病気でないかと思い込んで具合
が悪くなるのである。
夏樹さんの場合には、腰が悪いと思って
痛くなったようであるが、ぴたりと治った
というのもすごい。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村
Calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>
PR
Selected Entries
Categories
Archives
Recent Comment
Links
Profile
Search this site.
Others
Mobile
qrcode
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM